前回、「良い子を演じるのに疲れた」という言葉の背景について考えました。今日は、「良い子あるある」をテーマに書いてみようかなと思います。
どちらかと言えば私も良い子を演じがちなタイプでした。本当に良い子だったかと聞かれると、そこまで良い子ではなかったのですが、「良い子でいなきゃ!」という思いは強くて。良い子を演じるというより、「良い子にならねばならぬ!」という意識で過ごしていたように思います。
しかし、残念ながら、私の能力では「良い子」になることはできませんでした。単なる努力不足とも言えます。だから、「演じることに疲れる」以前に、「良い子になれない私はダメ人間」と自分を責めてばかり。ダメじゃない自分になろうと頑張るけれど、うまくできなくてまた自己嫌悪。
こういったことを話すと、「あなたは理想が高すぎる」と言われます。ということは、自分が思っているよりは、ちゃんと良い子だったのか……。だけどやっぱり思い出されるのはダメなところばかり。「良い子」であることに加えて「できる子」になることも強く求めていたようです。
だから私は「良い子を演じてきた」とはとても言えないのですが、そういう心理はすごくわかるような気がします。アダルト・チルドレンなどの事例として見聞きする環境と比べたら、私の大変さなんて屁でもないと思うのですが、それでも共通する気持ちはいくつかあって。
そのあたりを書いていこうと思います。
大人にとって都合の良い子
斎藤環さんの『承認をめぐる病』に、「良い子の条件」が挙げられています。
「手のかからない良い子」とは、
すぐに浮かぶイメージは、大人しく従順で、それほど自己主張はせず、勉強などやるべきことは大人から言われる前に進んでこなし、家事なども積極的に手伝う、というあたりだろうか。(p.66)
これプラス、「良い子の必須条件」が次のもの。
まず第一に対他的配慮である。「周囲の大人たちが自分をどう見ているか」を客観的に判断し、大人の期待に先取り的に答えていくこと。自分を取り巻く“空気”の内実を瞬時に察知するだけのアンテナを鋭敏にはたらかせること。こうした身振りが半自動的に身についてしまっていること。(p.66)
「半自動的」というワードが特に「わかる~!」と思いました。小さい頃から「周囲の大人たちが自分をどう見ているか」を意識していたので、大人になってからもそういう態度や反応が抜けきらないんですよね。
「“空気”の内実を瞬時に察知する」ことも、正確にできていたか自信はありませんが、そのためのアンテナは常にビンビンでした。周囲の空気がちょっとピリついただけでビビる。子供の頃はこの感じを言葉にできず、何となく感じているだけだったけれど、今振り返るとそうだったなぁと。謎の頭痛に悩まされたのもこれが原因だったのかしらと考えたり。
「良い子」とアダルト・チルドレンの類似性
病理的な意味での「良い子」には、アダルト・チルドレンと共通する項目があるようです。
- 自己信頼性の欠如
- 自分を認められない
- 対人不安
- 自己批判
- 対人依存
- 不完全感と完璧主義
- 過剰な責任感
- べき論と低い受容性
- 思考の二極化
- 自己関連づけ
- マイナス思考
- 判断に自信がない
- 断れない・頼めない
- 怒りの衝動
- 漠然とした不安感や空虚感 など
(p.67)
私、コレ、すべて心当たりがあります。「対人依存」は違うかなと一瞬思いましたが、人の顔色を伺うのは、他人の評価に依存していると言えますよね。
これらの共通項は、認知療法の本によく登場します。このブログでも関連する話題を書いているので、少し挙げてみます。
息苦しくなりやすい考え方・捉え方
「自信がない」を克服!自由にのびのび生きるコツ
自己肯定感が低いため、「自分を認められない」「判断に自信がない」。嫌われるんじゃないかという恐れや不安が先だって、「断れない・頼めない」。
警告!ネバネバ・ベキベキ思考を止めなければ苦しみからは解放されません
「べき論と低い受容性」……「~しなければ」「~すべき」という考えが強すぎて、ルールを守れない自分や他人が許せない厳しい人。
何でも白黒つけてしまう人が知るべき真実 ~どっちつかずの生き方~
「思考の二極化」、完璧以外はすべてダメ。曖昧な答えを許さない。
批判によるダメージを軽減する魔法の言葉
「対人不安」と聞くと、社会不安障害(社交不安障害)や見捨てられ不安が思い浮かびますが、この投稿のニュアンスは「豆腐メンタル」。程度の差はあれ、決して無関係ではないように思います。
「私はダメだ~」と言わずにはいられない理由
「自己信頼性の欠如」「自分を認められない」「自己批判」「マイナス思考」
理想が高すぎるために「ダメだ~」となりがちな完璧主義子さん。
「誰もわかってくれない」 泣きたい気持ちをなだめる3つの方策
「対人依存」は、「どうしてわかってくれないの!」という怒りにつながることもあるのかもしれません。
リストカット、アームカット、オーバードーズ、過食嘔吐、抜毛、頭皮をむしる……自傷行為がやめられない
完璧主義や低い自尊心とも関係しているという自傷行為。「自己批判」「過剰な責任感」「衝動的な怒り」も無関係ではなさそうです。根底には「漠然とした不安感や空虚感」があるのかもしれません。
以上の「認知の歪み」をまとめた結果、こんなハウツーができあがりました。
驚くほど簡単に不幸になる5つのポイント(幸せのヒント)
– 人と比べて劣っているところを探す
– 「~しなければ人間失格」と自分を縛る
– できたことを無視して、できなかったことのみ数える
– 「自分はダメだ」と言い聞かせる
– 人の評価にすべてをゆだねる
良い子になろうと頑張る理由
なぜ良い子になろうと頑張りすぎてしまったのか?
もともと性質?
養育環境によるもの?
社会的な価値観の影響?
これはもうはっきりとした答えは出ませんよね。心当たりがないわけではありませんが、私の場合は、確実にこうだ! と言えるほどのものはありません。多かれ少なかれ、すべてが関係している。人によってその内訳は異なるのでしょう。
ですので、とりあえず、「真面目で素直な優しい子なんだよね」と言うことにしています。
「良い子であること=善く生きること」と考えれば、これは素晴らしいこと。すべての人が目指すべき理想です。ただ、人間には醜い部分もあります。だからこそ、ある程度のところで折り合いをつけたり、上手にごまかしたりして生きていく賢さ(ずる賢さ?)が必要です。
そして、親や周囲の期待に応えようと頑張ること。これは、相手の気持ちを大切にしていると言えます。結局のところ、自分のためではあるのですが、相手を大切にすることによって自分を大切にする。なんて素晴らしいことでしょう。
問題は、自分の本心がないがしろになってしまったこと。理想を叶えようとするあまり、一番大切にしなければならない自分が置き去りになってしまった。その結果、「やらされている」という意識が生まれた。
「こんなこともわからない私はなんてバカなんだ!」
いやいや、「真面目で素直な優しい子なんだよね」。だからこそ、頑張らなきゃって肩に力が入っちゃったんだよね。
最後に
「良い子を演じるのに疲れた」という言葉。それを自覚したとき、自分を大切に生きるスタートラインに立ったと言えるのかもしれませんね。
「よい」と信じたことを実行しようとする意志を持っていたこと。結果はどうであれ、まずはそこを大切にしていきたいものです。
「よい」とは何か?
この質問に絶対的な答えはありません。
常識や世間の声ではなく、「私」が「よい」と信じる生き方。
それを考え抜いた上で、「よい生き方」をしていきたいなぁと思います。
そのために私が必要とする「よいこと」は、「適当」とか「妥協」とか「現状維持」とか「ゆるゆる」とか「ほっこり」とか「ほどほど」とか。
それがあれば、人に優しくなれるから。
よりよく生きるためには柔軟性が必要だと思い知らされる日々です。
<本日の一冊>
斎藤環 (2013)『承認をめぐる病』 日本評論社
ふみふみこ(@fumifumiko23235)さんのカバーイラストが可愛い本書。エヴァンゲリオンなどアニメの話と絡めた解説は、わかりやすくて面白い!
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こんにちは♪
また、全然関係のないお話ですが…;;;
雪が止んですごく晴れて、今、虹が出ていました。
辛いことの後には、いいことがあるってことですかねぇ‥?