「生きてることがつらいなら、いっそ小さく死ねばいい」という歌について以前書いたのですが、その後も度々「小さく死ぬ」ってどういうことかなと考えることがあります。
先日、トイレの中でボーッとしているときに、ふとこんな言葉が浮かびました。
死ぬことが最適解に思えたときは、つべこべ言わず寝ればいい。
これが「生きてることが~」の歌詞と結びついて、あぁ、なるほどねと納得しました。死ぬことを永眠と言うから、眠る=小さな死と言えそうかなぁと。
とは言っても、実際つらくなったからといって「じゃあ寝ます」と実行できるかといえば、必ずしも実行できるわけではありません。むしろ「そんなこと言ってられないよ」という状況の方が多そうです。
ので、「こんなことをやったって意味がない」とか「自分は生きてる価値がない」とか考えてしまうときは、ゼロベースで考えてみよう、ぐらいのことになるでしょうか。
死ぬ以外にどんな選択肢があるか落ち着いて考えてみるのは良いと思います。「学校へ行くか、死ぬか」「仕事へ行くか、死ぬか」のような極端な思考に陥っていることも少なくないので、その他に選択肢はたくさんあるんだとわかるだけでも違うだろうし、「学校(仕事)に行かねば」のレベルをLOWにして考えたら、思わぬ糸口が見つかるかもしれないよねと。
死ぬことが最適解に思えて、具体的な方法を考えてしまうような心の状態は、おそらく健康ではありません。だから、一旦休んだ方が良い。これは間違いないでしょう。
でも、この感覚が慢性的に続いているときはどうしたらいいのでしょう? 慢性的に「死んだ方が良い」と思っている人がとりあえず寝て休止したとして、再び起き上がったら、また「死にたい」。そしたらまた寝るの? そうわけにはいかないよね?
だから、本当に切実にこれはヤバいなと思えるレベルで「死が最適解だ」と考えたときには「つべこべ言わず寝ればいい」ってことになるんですけれど、その見極めはどうしたらいいのか。それが難しい。経験? データを集めて? 傾向から予測する?
問題を解決するためにどんな手を打ったらいいか考えて、試行錯誤して、道が開けることを期待して、それまで何とか持ちこたえて……といった具合に何とかやっていくしかないのですが、調子が悪いときにはそんなことできないよーうわーんという感じだし、難しいところです。
そもそも「生きてることがつらい」「死が最適解」と思ってしまうのはどうして? 一体何が足りないの? 漠然とした不安感や焦燥感が消えないのはなぜ?
そう考えて出てくる答えは、強いて言えば行動。
いや、行動というか、流れを変えると言ったらいいでしょうか。
変化を起こせば、何かが変わる。確実に。ってそりゃ当たり前か。
何をするかは自由。自分の好きにすればいい。
その他いろいろエトセトラ。
生きてることがつらいなら、いっそ小さく死ねばいい。
死ぬしかないと思ったら、つべこべ言わず寝ればいい。
もちろんこんなことを言ったって何の解決にもならねぇんだよってことはいくらでもあるんですけれど。
切羽詰まったときには、大丈夫という気持ちにさせてくれそうな言葉を思い出して、自分を安心させてあげる必要はあるなぁと思います。
【とりあえず思いつく答え】
・認知行動療法(自殺の長所と短所を探るワーク)
・問題解決のためのアクションプラン
更新ありがとうございます
明石家さんまさんの師匠の言葉でいきてるだけで丸もうけ。
心にしみます。
人は、必ずいつか死にます 死に急ぐことは、ない。私は、そう思います。