どういう自分でありたいかを問う

「どうでもいい」

何かにつけて(主に自分の身の回りの事象に対して)、そう思うようになったのはいつからでしょう。

基本的にいろんなことがどうでもいい。どうあってもいい。その人がそうしたいと思うようにすればいい。自分がいやな思いをするのはいやだけど、生きていればそういうこともあるので、それもまたよし、よくなかったとしても、それもあり、ということなのだと思う。そういう意味で、いろんなことがどうあってもよい。

そんなふうに考えることが私は多いと思います。

 

もちろん、どうでもよくないこともあります。

「よくあろうとすること」

これをやめることはしたくない。

最善をつくすこと。公平であること。人が大切にしているものを尊重すること。などなど。

 

学ぶこともやめたくありません。

特に、自分の過ちから学ぶこと。

自分の過ちと向き合うことはしんどい。

けれど、向き合うことで学べることがあるから、がんばってやっていきたい。

 

罪と罰がどういうことなのか、最近やっとわかってきた気がします。

罪の記憶を抱えたまま生きる。これが罰になるということ。

自分がおかした間違いを忘れずに生きていくのはしんどい。でも、過ちを忘れないから、少しずつましな存在に変化していけるということ。

誰かを恨んでいると、現状が見えなくなります。被害者意識に支配された状態では学べません。

でも、学ぶためには、まず自分の感情を知ることから始めないといけない。否定したり抑圧したりすると、問題から遠のいてしまう。過ちから学ぶためには、長い長い時間が必要。

というのは、岡本茂樹さんの本『反省させると犯罪者になります』を読んで痛感したことです。

岡本茂樹さんは『ロールレタリング:手紙を書く心理療法の理論と実践』の著者です。

『ロールレタリング:手紙を書く心理療法の理論と実践』感想

 

こういう根本的なところを確認すると、ちょっと背筋が伸びるのでいいかもね、と思います。

そうそう意欲は高まらないけども、よくあろうと思うと、希望の存在に気づける。

たまにはそうやって一番大事なことに向き合わないとな、と思ったのでした。

いちばん大切なことに向き合う時間をおろそかにしてはいけない。

でもそればっかりやっていると、生活が立ち行かなくなりそうだからほどほどに。

何事もほどほどに。

バランスが大事。

バランスを取るのって難しいよなぁ。

 

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