文学的なサムシング、ささやかなサムシング、とりとめもないサムシング

 
あなたは文学的なサムシングを感じたことはありますか?

 
そんな質問をされたら「?」マークが頭上に浮かびませんか。思わず「え??? サムシング? デニムブランドの? サムシングエルス? 電波少年の? いやもちろん違うってわかってるけども!」みたいな感じになりませんか。私はめっちゃなります。サムシンググレートに包まれたような気分です。

誰がそんなサムシング発言をしたのか。

それは、作家・阿刀田高――。

先日参考書籍として挙げた阿刀田高さんのエッセイ(『日本語を書く作法・読む作法』)を読んでいたら、何度も「サムシング」という単語が登場して、なんかもうすごい気になっちゃって。もちろん意味はわかるんですけど、自分の周りにそういう言葉を使う人がいないので、かなり新鮮に感じました。

で、今数えたら、サムシングという言葉が本書で使われたのは7箇所。意外と少なかったですね。体感としては倍以上あったような気がしたのですが。きっと私の頭の中で反響していたからでしょう。

 
それにしても、なぜ「サムシング」なのでしょうか。

まずは、エッセイで登場したサムシングを引用してみます。

日本文化の根幹に関わるサムシングを失ってしまうのではあるまいか、と危惧するのは私だけではありますまい。

ささやかなサムシングを楽しむ気配があった。

とりとめもないサムシングを綴ってみよう。

文学的なサムシングというか余韻もある。

『羅生門』に籠めたサムシング

このメッセージこそ、小説にとって最も大切なサムシングであり、モチーフです。

読んでいるとサムシングを感じる。

something を日本語にすると、あるもの。何か。何ものか。何かあるもの[こと]。コトバンクには「多く、よい意味で用いる」とあります。

で、引用した文章を一読すると、「何か」「もの」「こと」ぐらいのシンプルな日本語でいけるような気がするのですが……。それをわざわざサムシングと書くのなぜ?

いや確かに、「something」と「何か」は同じではありません。日本語の「何か」「もの」「こと」はぼんやりとして、あるのかないのかよくわからない感じ。一方の「something」は、「あるぞ!」と強調される印象があります。たとえ中身がなくとも「ないものがあるッ!」と主張する強さを感じるというか……。

そう考えると、確かにサムシングとしか言いようがないということなのかなと納得もします。

ただ、どうもモヤモヤする気分もある。

というのも、阿刀田さんはこうも書いているからです。

英語を世界語として安易に認めることは、英語の論理構造を受け入れて、その支配下に入ることだということも忘れないほうがいいでしょう。(中略)
 それよりももっと日本語を大切にしてほしい、日本の文字に愛着を持ってほしいものです。
(「直筆」の手紙力「縦書き」の効果 より)

英語の早期教育について書いた文章からの引用です。

英語の早期教育の是非はいったん置いておくとして、「支配下に入る」ってかなり強い言い方ですよね。日本の文字に愛着を持ってほしいというようなメッセージは、他のパートでもくり返し語られています。日本文化の根幹に関わる何かが失われることを憂えておられるようです。

その一方で、阿刀田さん、めちゃめちゃ英単語を使っているんですよね。これすごい気になった。いや、日本語ではニュアンスを表現しきれないため外国語から拝借しましたってことなんだと思います。でも言いたくなっちゃいますよね、「日本語で通じる言葉もすごいカタカナ英語で言ってくるじゃん」「外国語大好きじゃん」って。

例をいくつか挙げましょう。

  • ビヘイビア(ふるまい)
  • ペダンティック(衒学的な)
  • プリミティブ(原始的な)
  • センチメンタル・バリュー(感情的価値)
  • ステロタイプ(紋切り型)
  • コケットリイ([仏] なまめかしさ) など

一般的にはあまり使わないですよね? いや、ステレオタイプは普通に使うか。人によってはコケットリーも? まあいいや。とにかく、私は日本語の方がすんなり入るのですよね。いや、衒学的は「ん?」ってなる。知識をひけらかすというような意味ですって。衒学(げんがく)という言葉自体がすでにそんな感じですね。面白い。

「日本語に愛着を持ってほしい」と言うことと、外国由来のカタカナ語を使うことに矛盾はありませんが、何となくモヤモヤなサムシングが生まれてしまったのでした。

そんなささやかなサムシング、とりとめもないサムシングをあれやこれやと巡らせている今日この頃です。

(サムシング……、音がいい……!)

 

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