相手のことをいつも第一に考えて、自分の気持ちを後回しにしてしまう。
そういう人の肯定すべきポイントについて、前回書きました。同時に、精神科医の肯定的な言葉に泣けた、とも書きました。
【参考】人の顔色をうかがうことに疲れてしまった気遣い屋さんのあなたへ
自分の頑張りを認められない、自分に優しくすることがいけないことのように感じていた私の胸に沁み入った言葉。
でも、2度目、3度目に読むときには、違う思いが出てきました。
「私にこの労いの言葉を受け取る資格はあるのか?」
労いに資格も何もないのですが、「私なんて全然ダメ」という思いがあるので、結局自分を押さえつけてしまうんですよね。
実際、私の気遣いは空回りしていただけで有用なものじゃなかったと思うし、そうじゃなかったとしても、別にそんなの人並みの気遣いでしょと思ってしまいます。というより、そう思わないといけないような気がしています。
今この瞬間も自分の中でさまざまな思いが葛藤しているのがわかります。それを意識するとどうしたらいいかわからなくなるし、何とか統合しようとしても、結局引き裂かれてしまうような感じです。
だから、自分の身が破滅することを考えた方がラクなのかなぁと、あまり好ましくない考え方をしてしまうことにも納得。……しているのでしょうか。
ダメな自分を肯定する方法
労いの言葉をうまく受け取れない人は、どうやって自分自身を労えばいいのでしょうか。
自分が「ダメだ」と思っているうちは、何を言われても疑ってしまうし、自分で自分を労おうと思っても、心から「頑張ったね」と言ってあげられないのかもしれません。
自分自身のことをふり返ってみて思うのですが、私は一生懸命自分を責めていたときの方が、素直に労いの言葉を受け取れていたような気がします。
そのときは、自分の至らなさを認められていなかったために、「ダメだ」と自分を痛めつけながら「ダメじゃない」と同時に叫んでいるような状態でした。
だから、誰かに「大丈夫だよ」「ダメじゃないよ」と言ってほしかったんだと思います。
にもかかわらず、そう言ってほしがっている自分は甘えている、ダメだと思っているから、素直な気持ちを認めたくなくて、この状態をなかなか変えられませんでした。でも、内心、労いの言葉にホッとし、嬉しく思っていたはずです。
そんな状態が長く続いていたわけですが、何だかんだと自分の思考をなだめようと試行錯誤しているうちに、自分のダメさを素直に受け入れられるようになっていることに気づきました。
具体的には、「ダメだ」とため息が出たときに、「え? そんなことも知らなかったの?」「わざわざ言わなくても知ってるよ」とお返事していたことが効果的だったようです。
「自分は未熟で至らない人間で、それゆえに迷惑をかけることも多々あるわけだけれど、それは悪いことではない。改善すべき点は多数あるけれど、そんなのは当たり前。完璧な人間はいない」
そうして、自分の至らなさともそれなりに付き合えるようになった今。結局同じ思考をくり返しているんですけどね。何周したら気がすむの? って感じですね。
まぁ以前のような悲愴感はなくなりましたし、客観的に眺められるようになったらそれでいいのかなと思います。「まぁいいか」「そんなもんだよね」と。ぐるぐるぐるぐる「ダメだ」をくり返す自分に「ご苦労様です」と声をかける。まさに労いです。
労いの言葉を素直に受け取れない自己批判的な人へ
ありきたりな答えですが、まずはありのままの自分を肯定することが大事ですね。
「頑張ったね」
「大丈夫だよ」
「ダメな自分」がダメなんじゃなくて、自分に鋭い刃を向けるのがダメ。
これまでの癖を直すのは、なかなか簡単にはいきませんが、少しずつ少しずつ自分に優しくする習慣を身につけていきたいですね。
自分でうまく労えないときは、私が言いますね。
「存在しているだけでええんやで」
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ナミさん、こんばんは。
いつも有難うございます。お世話になっています。
今日、かつてナミさんのブログでしてはいけないと書いてあった事をしてしまいました。まだ、本調子ではないのに、ベッドにばかりいるのがイヤになり、普通のように頑張って動いてみたのです。すると、次の日、みごとに、1日動けず、そんな自分に自己嫌悪。ゆったりと過ごして、力が出てくるのを待つしかないんですね。焦らず。ナミさんの言うとおりでした。ちーーんのコイケです。