指先負傷中に考えた茶碗の米粒問題

左手の指を負傷しました。焦ってバタバタやっていたら、刃物で切ってしまいまして。前にも似たようなことやったよなぁと懐かしく思います(3年ぶり2回目、参考)。

ケガをすると不便です。爪が一部ダメになって力を入れにくい。何かをつかんだり動かしたりするときに、ギュッと力が入ると痛い。地味に痛い。気分的にもしょんぼりモードでよろしくありません。

が、気づきもあります。「痛い、あっ、いつもこの手でやってるのか、意外とこの指に力入ってるんだな」と指先の働きぶりがわかるのです。

 

そんな中で考えました。

茶碗の米粒を残さず食べるか否か、という問題についてです。

自分はご飯粒を最後の一粒まで残さず食べる派です。残っていると気になるし、落ち着かない。

文化の違いもあることなので、自分のやり方を人に押しつけるつもりはありません。

でも、なぜご飯粒を残すのかはずっと疑問でした。

まず、もったいないじゃんと非常に強く思うところです。というか、残して食べる方が逆に難しくない? 米粒をその都度回収しながら食べていれば、そんなことにはなりようがないような。

いや確かに、乾燥して茶碗に張りついて取りにくいことはありますよね。が、毎回たくさんの米粒を残す人はそういうレベルではない。茶碗全体にブツブツブツブツブツブツ~と残っている。

この、つぶつぶつぶつぶ~の状態、ちょっとぞぞ~っとする感じがありませんか。小さい穴やブツブツが怖い集合体恐怖症とやらに通じる感覚でしょうか。ってこれは個人的な感覚の話なので置いておくとして。

 
私はわかっていなかったのです。「できる」「できない」にもいろいろなレベルがあるのだということを。

最近、米粒残す派の人に教えてもらいました。曰く、「不器用だからできない」ということらしい。頑張ればできなくはないが、すべての米粒を取るのに大変な労力を要するのだと。

なるほど。

ケガをしてからの私はとても不器用でした。当たり前のことをするのに、大変な労力を要しました。

もし茶碗の米粒を取るのにも同じくらい大変な思いをするのだったら?

勘弁してほしいと思うでしょう。

普段「できる人にはできない人の気持ちなんてわからないでしょ、どーせ」とか言っていたわけですが、その言葉がそのまま自分に返ってきたのですね。

反省しています。

何事も自分基準で考えてはいけない。

そんな当たり前のこと、ケガをしないと実感できないとは情けない。

と思いましたが、一人間がそんなすべてのこと理解するのは無理な話なので、身近なところから一つ一つ理解を進めていくしかないですよね。

いやしかし、幼い頃に培われた「~~しなければならない」という意識がいかに強力なものであるかを実感しました。

何でもないような事が幸せだったと思う虎舞竜状態、この気持ちを忘れず、今後とも精進してまいります。

 

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