人と比べて自分が損しているような気分になったときは、「ずるいずるい」「やだやだやだー!」と手足をジタバタ動かすと感情が発散されていいかもしれない、という話を前回書きました。
なんで皆そんなに元気なの?無気力じゃないのずるい!と駄々をこねる運動
この中で、比較はキリがないのでやめよう、自分の喜びを追求しようということも書いたのですが、それって簡単ではないですよね。
テレビをつければ元気そうな人たちの姿がたくさん映っているし(人生しんどい人を追ったドキュメンタリーもあるけれど)、SNSを開けば、目に入る人たちは何だかんだ人生をやっている(自分と似たような人もいるけれど)。周囲の人を眺めてみても、自分と同じように無気力そうな人はいない(ように見える)。
これらが表の顔として演出されたものだと理解しても、受け取った情報は、自分の中でまとめられ、消えることはありません。ぼんやりとしたイメージとして、ふとしたときに浮かぶんですよね。
もはや私は自分が生成したイメージに「ずるい!」と言っているだけなのかもしれません。あるいはそこに現実のちょっとしたエピソードをつけ足して「ほら、やっぱり」と言っているだけの可能性……。
いやはや、困りましたね。
比べない、心をラクにする術を求めて
では、みんなが難なくやっている(ように見える)ことが、自分にはできない。それを思い知ったときに生じるもどかしさ、はがゆさ、やるせなさをどうなだめるか。
- 「人生とはままならぬものよ……」と目を細めて遠くを見る
- 「人はいずれ死ぬ、例外なく死ぬ」と力強く静かに言う
- 今自分が求めているものは本当に必要なことか? 自分にとって大切なことなのか? と自問する
- ……(無)
と、こんな感じでやりすごすなどしているのですが、効果のほどは……うーん、それなりでしょうか。
何かもっと他に良い方法はないのでしょうか。
みうらじゅんの比較三原則「“他人・過去・親”と比べない」
見方を変える、考え方を変えることで不快感を和らげるというのは対処の一つとしてあると思います。
例えば、みうらじゅんさんは、“他人と過去と親”を自分と比較しない「比較三原則」を提唱しています。
比較できるからこそ人類は進歩したかもしれないけれど、一方で比較こそが苦しみを生む原因なのかもしれない。その苦しみを和らげるために、まずは「あ、今○○と比較してるな」自覚する。そうすれば、「なんで俺は~」という気持ちは減っていくかもしれないと説いています。
その場でわかりやすい効果は得られなくても、こういうちょっとした積み重ねが大きな変化をもたらすことでしょう。
以前「私は何てダメなんだ」落ち込みの理由とつらさを和らげる考え方でも似たようなことを書きました。上方比較、下方比較の話です。
「自分」に集中する
言葉の力は強力ですが、長年培ってきた思考の癖を変えるためには、具体的なアクションを起こすのがよさそうです。
- 掃除
- 運動
- 瞑想
- 趣味に没頭
などなどなど、「いまここ」「自分」に集中できる何かを。
例えば、周りをキョロキョロ見渡すのをやめて、一眼レフカメラを構えてみるのがいいかもしれないと今唐突に思いました。カメラもレンズもよくわかりませんが、目の前にあるもの、自分が捉えたいものと向き合うという意味で、すごくいいんじゃないかなと。
まあそんな感じで、自分が好きなことをいろいろと、思いつくままに試しつつ。
それができないから困っているというときは、「寝る」とか……?
あと、「学ぶ」も有用な選択肢の一つであり、モヤモヤした気持ちをおさめるのに最適だと思います(先日、歴史や社会学の本にふれ、自分が当たり前だと思っている価値観って絶対じゃないんだよなと改めて気づきました)。
最後に:そうは言っても難しい
誰かと比べて「なんで私は……」と落ち込みそうなときは、
- 「あ、比較してるな」と自覚する
- 「いまここ」「自分」に集中する
なかなか難しいですね。でも、心がけることで少しずつ何かが変わっていくことでしょう。
あまり自分や他人を責めぬよう、心穏やかに過ごしてゆきたいものです。
<参考書籍>