自分を知る方法、私だけの「好きなもの」/最果タヒ「好き」の因数分解より

前回書いた、最果タヒさんの「飽きてOK」というエントリに共感したという話の続きです。

今回は、最果タヒさんの連載コラム「「好き」の因数分解」で語られた「好きなもの」について。

特に印象的だった言葉を引用しながら話をしようとして失敗したので、もうガバッと載せさせてもらいます。

 どうして、「何が好きか」によって自分を表現しようとしてしまうのだろう。昔からそのことが不思議で、そうやって他人の作ったもので自分の内容物を説明しようとすることが悲しくて悲しくてたまらなかった。けれど私が語らなくても、どんな音楽が好きかなんていうことで優劣をつけられることは何度もあり、私がそこから逃れることはできなかった。私というものを本当の意味で知りたいのは私だけで、他の人は、好きなものでも嫌いなものでも何でもいいから、わかりやすく簡略化された「私」と接していたいのかもしれない、とも思う。そして余計に私にとって、私の好きなものは特別なものになるんだ。「私」を簡略化して語るためではない。私だけの「好きなもの」。「好き」を因数分解して、複雑な、私だけの感情にしてしまいたい。
(「好き」の因数分解 第十八回『FUDGE 2018年4月号』)

(よい……)っつって何回もくり返し読んじゃいます。本当は全文読んでこそだぜとも思うのですけれどもね。

さて、私はまさに「何が好きか」によってその人がどんな人か判断しようとするところがあります。そして私自身も同じように「何が好きか」によって判断されるとわかっているから、何を言うのがベストかあれこれ考えます。結果、思わず慎重になって基本的なデータを紹介してみたりします。

でも自己紹介するときに、自分の名前や誕生日を伝えることは自己の紹介になっているのか疑問だし、「何が好きか」を伝えることの方が、自分がどういう人間か伝わりやすくて親切だよねという思いもあります。

で、それはまさに最果さんが言っていることだと気づくわけですが、複雑なものを複雑なままに取り扱うことって難しいですよね。白黒つけられないグレーゾーンが広がるほど、どこから突っついたらいいのかわからなくなります。だからわかりやすくラベルをつけたりパッケージングしたりして「私はこうです」と提示するわけですが、それは自分とイコールではありません。その差異が居心地を悪くして、その「私」がいる場所から退場したくなる。そんな感覚をいまだに上手に処理できなくて、うがぁぁぁーとなっているのですけれど。

最果さんが書いているように、「何が好きか」を伝えた瞬間に優劣をつけられてしまうこともよくあって、そのせいで「この言葉を発したらどのように思われるか」という考えにとらわれがちです。私には自分をかっこよく見せようとする虚栄心もあるので(あー、見栄っ張りかっこよくない、いやらしい)とちょっとした自己嫌悪に陥ることもしばしばです。

やっぱり下に見られるのは嫌だし、私を私とは違う何かとして捉えられるのも嬉しくない。そうやってなんだかんだ考えると怖くなっちゃって何も言えなくなる。

けど、けれども、そんなことは全部ぶっ飛ばして、私はただ純粋に自分の「好き」を追求したい。

そんな心境に至って、思えば私はここ数年、自分の好きなものを追求することに一所懸命であるように思います。「自分」をもっと知りたいから「自分が好きなもの」を知りたがっているというところが大きかったですかね。

「私」を簡略化して語るためではない。私だけの「好きなもの」。「好き」を因数分解して、複雑な、私だけの感情にしてしまいたい。

「まさに!」と強烈に思ったから、この連載もメモしておいたんだと思います。

遺伝子がそうさせている、だなんて、そんな最高に自由な「好き」、他にはなかった。

私の遺伝子が、決めたことです。

そう、遺伝子レベルで細胞が喜ぶものを私は見つけたい。

そんでもって、その「好き」を表明することによって私がいかなる人物か判断されたくない。

 

自身の変化を楽しみ、「好き」を知ること。

それが人生の喜びなのかな、と、とりあえずまとめっぽい言葉を並べておきます。

1 COMMENT

アジサシ

何度も読んでみました。
自分が好きなものは、心の中のことなのでだれにも侵されたくないと思っています。
それを表明したとき、共感してくれたらうれしい。共感してくれなくても、「あなたはそれが好きなんだね。それを好きなことは尊重するよ。」
という態度であれば、僕は安心します。
いわゆる同調圧力で判断されるのは嫌ですね。
心の中は自由であるはずです。

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