テキトーでいい加減だからこそ、正直でありたい

うにゃ~とした顔をする猫

前回前々回の投稿を書いていてふと思ったのですが、私は人が一度口にした言葉を信じすぎる傾向がありました。表面にあらわれた事柄や意味だけを受け取って、そればかりを大事にしてしまう傾向です。

「人が一度口にした言葉」の多くは、私にとって重要だと感じた約束や宣言。それを石に刻みつけた言葉のように捉えて、いつまでも執着していました。まるで「言質はとったからな」とでも言うみたいに。

いきなり手のひら返しされるのが許せなかったんですよね、「えー聞いてないよー」とダチョウ倶楽部のノリで返すのにも限度がありますよと。あるいは、経緯説明してもらえない自分は軽んじられていると感じて悲しかった。置いていかれるような寂しさも感じていたように思います。

なぜそんなふうになっていたのか考えてみると、とにかく不安で、心のよりどころとなる支柱を求めていたからなのかなという気がします。

加えて、誰もが自分と同じように考え行動するわけではないということを理解していませんでした。自分から言い出したことを忘れたり、柔軟に素早く変化するタイプの人(婉曲表現)がいることを認められなかったんですよね。

あとは、完璧を求める気持ちもありました。例えば、学校の先生が矛盾したことを言ったりやったりしていると本当にムカついて仕方がなかった。「先生だって人間、完璧じゃないんだよ」と言われても、「え? あんなに偉そうに何度も言っていたくせに? それ忘れちゃうの? つじつま合わないってわからないの? バカなの?」と。先生は敬うべき対象で大方正しい(道徳的ルールから外れない)と信じていたからこそ、残念な先生が存在している事実を認められなかったのです。

とまぁ人のことをどうのこうの言っていますが、自分の言動で忘れていることもたくさんあるんだろうなとも思います。人にされたことは覚えていても、自分がしたことは覚えていない。そういうことってよくあります。自分もいろいろやらかしていそうです。

そんなわけで、人が一度口にした言葉に執着しがちな私でしたが、今は人の言葉をほどよく受け流せるようになりました。

人の言葉を信じなくなったと言うとちょっと寂しい感じがしますが、人にも自分にも寛容になれたんだ、そう思えば、これもまたよかったってことになるのかなと思ったり思わなかったり、こういう曖昧な言い方はよくないと思いながらも、自信がないから今日もお茶を濁しております。

誰かの主張が変わったときや二転三転したときは、「矛盾してる!」とただ憤るのではなく、どういう経緯でそうなったのか聞けばいい。その返答として、無責任でめちゃくちゃなことを言うのなら、「この人は信用できないな」と判断すればいいだけのこと(今の日本の中枢の偉い人たちはまったく信用できないので、今すぐやめてほしい。やめるべきだ。日本を壊さないでほしい。こういう怒りはおさめません)。

日常の生活においては、人間ってかなりいい加減なものなんだな~と理解したことで、かなり気持ちがラクになりました。

変化するし、いい加減なものだからこそ、きちんとしている人、嘘のない人、不都合な事実を隠そうとしない人、約束を守る人に出会うと嬉しくなります。同時に、自分もそういう人でありたいなと思います。

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