人生どうでも飯田橋、ドブに捨てても飯田橋

両脚を投げ出す男性

先日、トコトコ歩いているときに、ふと「あー、20代ドブに捨てたな」と思いました。

何かについて思いを巡らせていて、それに関連してパッと思い浮かんだ言葉なのですが、そのセリフだけが妙にクリアで、心から納得している自分がいました。

もちろん「いやいや、ドブに捨てたってことはないでしょ」と思う自分もいます。人生ムダなことなんて何一つないんだよってね。自分の中にそういう考え方もあります。

でも、なんか笑っちゃうくらい納得してスッキリしたんですよね。悲愴感はなくて、カラッとした感じ。これまでのことを客観的に見られるようになったということなんでしょうか。

たぶん一部の人からは可哀相とか思われてるんでしょうけど、あんまりそういうのも気にならなくなりました。いや、もちろん面と向かってそういう態度見せられると、ウヘアァ~となりますが、そこまで揺らがないようになったのかなーと感じています。

20代の私が今の私の発言を聞いたら「は? だから何?」とイラつくかもしれないし、「やっぱりこのままじゃヤバいんじゃん」と焦りを募らせたかもしれません。あるいは「まだ20代、これからだ」と思ったかもしれない。

反対に未来の自分、40代50代になった自分がこれを聞いたら「なに若造がわかったような口きいてんだか」と笑うかもしれません。というか絶対「ばーか」って言ってそう。自分に対しては辛辣なのでね。

まーその時々で何を感じるかはわからないですが、現時点では「今の自分はいい感じに開き直れてきたのかなー」と思っています。

とか言いつつも、焦ったり不安になったりすることはしょっちゅうだし、「もう無理」「しんどい」が口癖だし、地球が爆発して人類生物すべて木っ端微塵になるになることを想像して現実逃避ばかりしているんですけどね。あとすぐ怠けるし。

と、ここまで思いつくままに書きましたが、何が言いたいかというと、掲題の通り「人生どうでも飯田橋」ということです。

これネットスラング的なやつなんですかね? よくわかりませんけど、語呂がいいですよね。口にすると楽しくなります。

飯田橋にはちょっとした思い出があって、あの駅周辺で迷子になったことがあるんですね。地元民っぽい人に道を尋ねても「わからない」と言われちゃって、よくわからないまま適当に歩いていたら、与謝野鉄幹晶子の居住跡があって、「へぇ~こんなところに」と感心したり、線路沿いの風景がすごくキレイで「いいところだなぁ~」と和んだりして、結局よくわからないまま駅に戻っちゃったんですけどね。

そんなこともあって「人生どうでも飯田橋」は私にとって味わい深い言葉なのです。迷ってばかりの人生さ、みたいな?

だから何って感じですが、「あー、20代ドブに捨てたな」と「人生どうでも飯田橋」はどこか似ているなぁと感じた次第です。

「20代ドブに捨てた」を「20代地球に捨てた」的に捉えている節はあるかもしれません。「地球は俺のゴミ箱なんだよ」という名言を思い出します(参考:「理解できない」と言う前に自分の価値観が凝り固まっていないか考えたい)。

そういえば今年の初めにも同じようなこと言ってましたね。

2018年ご挨拶代わりの雑談

なにかにつけて「どうでもいい」と。要するに全部オッケーってことです。

全然オッケーじゃないときに聞いたらブチ切れそうですけどね。

でもまあそういうものなので、そういうふうにやっていくしかないです。

だましだまし、たまに茶化したりしつつ、それなりにやっていけたらいいなーと思います。

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