自分のことが嫌になることはありますか?
私はしょっちゅう自分が嫌になります。でも、あるとき思いました。
自分が嫌になるのは、嫌になるほど自分を見つめているからなのかもしれないなぁと。
同じ文字を連続で見ていると「これってこんな字だったっけ?」と感じることがあります。
たとえば「た」ばかり見ているとどうなるでしょうか。
実際にやってみましょう。
いきますよ?
たたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた
ナ? こ? たこ? んんん???
もう一つ、私が好きな平仮名「ぬ」でもやってみましょう。
ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ
なんか気持ち悪くなってきますよね。「あれ? ぬってこんな字か?」と混乱も高まります。
これは「ゲシュタルト崩壊」と呼ばれる現象です。
同じものをジーーーっと見つめることで、全体のまとまりをうまく掴めなくなる。なぜなのでしょうね。
ある研究者によると、このような現象が生じるのは、持続的注視によって認知機能が低下するためではないか、とのこと。*1
細部までまじまじと見ることで、情報が過剰になって、脳がオーバーヒートしてしまうのでしょうか? 錯視のような脳の不思議さ・面白さを感じます。
さて、最初の話に戻りましょう。「もう自分が嫌になる」という話です。
一つのものをじっと見続けると、対象をうまく捉えられなくなる。この変な感じは、じっと見続けるのをやめて、しばらくすると元に戻ります。
これと同じように、自分を見つめることをやめれば、嫌な気持ちは和らぐのではないでしょうか。
もちろん、いくら自分を見ないようにしても、自分を完全に切り離すことはできません。他のものを見ようとするその目は自分にくっついているのだから当然です。
それでも、脳が処理できる情報は限られています。
つまり、自分の目が釘付けになるような対象を見つけることができれば、脳はその情報を処理することで手一杯になって、自分のこと(自己嫌悪感)は二の次になる。そうすれば、自分の嫌なところを見せつけられる事態を避けられるのではないか、という予想です。
病気で脳に異常があるときには、なかなか難しいのかもしれませんが。
というわけで、「一つのものをじっと見つめて変な感じになったときは、目を離してしばらく遠くを見ましょう」というのが本日の結論です。
内向きになる傾向がある人ほど、外向きになるよう意識した方がよさそうです。
できる限り自分以外のものに目を向ける。たとえば、草花の世話をするとか、動物とふれあうとか、そういうのすごく良いと思います。
自分以外の何か(誰か)を愛するって素敵ですよね。
【似たような話題】
・嫌なことばかり思い出すのは、楽しさ・美しさ・ワクワク感が足りないから
・不安・孤独・苦痛に押しつぶされそうになったときは遠くを見よう
更新ありがとうございます。
急に暑くなりました。
お身体ご自愛くださいませ。