自己否定・他者否定の大部分は嫉妬心で説明できる

おもしろくない

自己否定の半分は嫉妬心でできている。

ふとそんなことを思いました。(有効成分の半分が優しさでできている某お薬の名コピーより)

自分の中にある嫉妬心を自覚すると、納得できることが多いんですよね。不穏な感情を辿っていくと、大抵ジェラシーに突き当たるんです。

そのプロセスをまとめると、こうなります。

自己否定・他者否定という不幸が生まれるまでの過程

  1. 世間一般の“価値”が幸せにつながると知る
  2. “価値”を手に入れるために頑張る
  3. うまくいかなくてガッカリする
  4. 人の成功を見て不愉快になる
  5. イライラがくすぶる
  6. 嫉妬心や怒りを見て見ぬふり
  7. 蓄積した感情が限界点を越えて爆発!
  8. 自己あるいは他者に被害が及ぶ

不幸になるための5ステップ」と共通する点がいくつかあります。

自己否定・他者否定のすべてが妬み嫉みから生まれるわけではありませんが、ここから考えてみることで見えてくるものがあるはずです。

自分に価値を見い出せなくてモヤモヤしている人は、何か当てはまるところがあるかもしれません。私みたいにね!

嫉妬はいけないことなのか

まず、嫉妬について。

人より劣っていると感じたとき、大切なものを奪われたとき、どんな気持ちがするでしょうか?

私はめっちゃ不愉快です。自分にムカついたり、相手にイライラしたり。これは当たり前の感情。誰だってできなくて悔しい思いをしたことはあるはずです。

だから、“価値”を手に入れるために頑張る。「私もこうなりたい!」と。

それで結果を出せなければ、悲しいし、落ち込みます。

「私だって頑張ってるのに」
「なんで私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないの?」

“価値”を手に入れた人・勝者は称えられ、チヤホヤされます。一方、“価値”を手に入れられなかった人・敗者は貶められ、見下されます。

「おもしろくない」
「ムカつく」
「悔しい」

そう感じて当たり前。頑張ったんだもん。何も感じない方がおかしい。

しかしながら、そこで黒々した気持ちを隠すと、相手の不幸を願うことになってしまうかもしれません。

劣等感と優越感は表裏一体。

劣等感を持ったとき、そこには人より優位に立ちたいという思いが少なからずあります。そして、それが叶えられないと嫉妬心が生まれます。ものすごい不快感。

「何とかして自分の優位を証明したい」

自分の価値を確認して安心するため、相手の弱点を探します。

でも、人と比べて自分の優位を示そうとすることは好ましくないと知っています。たとえそれが心の中であろうと。

だから我慢する。何でもないような顔をする。「妬んだり嫉んだりしたことはありません。ジェラシーって何ですか?」という態度で。

そうやって自分の感情をムシした結果、イライラがくすぶって不快感が続くのでしょうね。

嫉妬がいけないのではなくて、我慢がいけない。

ジェラシーはエネルギーの源。「お前なんか不幸になってしまえ」と呪い続ける人生はしんどいと思いますが、別に悪いことではない。相手を傷つけさえしなければ何を思ったって自由。

やせ我慢することも、自分を傷つける(感情を押し殺す)という意味では一緒ですよね。だから、我慢はほどほどに。

と、劣等感まみれの人間が言っていますよ。

それは本当に価値あることなのか

「私には価値がない」
「私は負け組」
「どうせ私なんか……」

こういう思いが生まれるのはなぜ?

世間で評価される“価値”、勝ち負けなどの基準があるから。

お金をたくさん稼ぐこと、有名になること、一流企業に勤めること、高スペックな男・可愛い女をつかまえること……とわかりやすい例を挙げようとしたら私のひがみ根性が丸出しになってしまいましたが、もっとささやかな幸せの条件もあります。

例えば、

  • 生活に困らない収入
  • 趣味や交際ができる余裕
  • やりがいのある仕事
  • 妻(夫)と子ども
  • 大病にかかっていない
  • 老後の蓄え など

それを求めている。あるいは、望むように求められている。

自分がうらやましく思っていることは、本当に素晴らしいもの? 心から望んでいるもの? なぜうらやましく思うの?

「みんな楽しそう。幸せそう。笑ってる。私もそうなりたい」

うん。今、なれるよ。

「なんで?」をくり返して一周すると納得できます。すぐに心から笑えなかったとしても、本当に自分が求めているものが何か見えてくる(はず)。

もし、笑えない、何をしても楽しくないという無気力状態なのであれば、とにかく休みましょう。病気になると健康なときと同じようにはいきません。冷静に考えられなくなることもあります。残念ながら、エネルギーがなければ思う通りにできないのです。

元気になってくれば、きっと気分も変わってきます。

だから、「不調なら休め!」

一度こだわりを捨ててみる

自分が見出した“価値”がどのようなものかわからなくなったときは、それを一度手放してみるといいかもしれません。その“価値”が本物かどうかは、そのときわかります。

普通の生活を手に入れたい。
仕事も家庭もすべて手に入れたい。
夢を叶えて幸せを手に入れたい。

それは命をかけてでも手に入れたいもの?

願いを手放したら、どうなるでしょう?

多分、捨てて困る願いはほとんどないと思います。本当に必要なものは、どうやっても捨てようがないから。

だから、「もういいや」とポイする。「どうでもいいよね~」ぐらいに思っておくとラクになります。

捨てると言うと否定的な印象がありますが、大切なのは効果的な戦略・自分が納得できる戦略を立てられるかどうか。

そのうちの一つが「捨てる」「あきらめる」。今までとは別の選択肢を選ぶこと。

それは全然悪いことではありません。なぜなら、それはよりよく生きるための努力だから。

ゼロベースで考えてみると、自分の喜びがどこにあるか見えてきます。

嫉妬から生まれる自己否定・他者否定はゲームの中の話

手に入れられなくて絶望するような“価値”とはどのようなものでしょうか?

私にとってそれはゲームの中で手に入れられなかったアイテムに他ならない気がします。

大事なものはすでに与えられている。

願望はそれとは別次元。「ゲームを楽しむためにこうしたい!」というだけのことなのではないでしょうか。どうせやるなら楽しんだ方がいいですもんね。

嫉妬もこれと同じレベルにあると思います。

「あの子が持ってる課金アイテムが欲しい!」

手に入れられたら嬉しいし、そのために頑張ってお小遣いをやりくりして課金するのも楽しい。もしその大事なアイテムを失ったらショック。相手に裏切られてアイテムを奪われたのなら悲しい。

「なんで私だけ……くぅぅ~~、悔しい!」

でも、それはゲームの中の話。そのことに対する怒りから、現実で藁人形に五寸釘を打ちつけることはしません。自分の不甲斐なさを全力で否定することもありません。

うーん、でも、なくはないですかねぇ。そういう衝動は私の中にもあるような気がします。

となると、それだけ熱くなれるのは素敵なことなのかもしれません。

最後に

自己否定にしろ他者否定にしろ、その根本にあるのは自分が見出した“価値”。

そのことを忘れなければ、嫉妬することもされることも楽しめるかもしれない。

……なんて、言うだけなら誰でもできるんですけどね。

最後にこれだけ言わせてください。

嫉妬って無邪気で可愛いものだと知っとってね。

……。

少~しも寒くないわ。

【ジェラシーさんいらっしゃ~い】

1 COMMENT

雪風

ナミさん、こんばんは。雪風です。
こんなことがあったんで、聞いていただければ幸いです。

とあるアニメの大ファンです。
なんですが、そのアニメのとあるスタッフがTwitterにこんなことを書いておりました。
今年のバレンタイン直後です。

「会社に●●(作品名)キャラたちへバレンタインチョコとお手紙が沢山届いて、スタッフ歓喜…!」

このツイートを見て、すごく気分が悪くなりました……
その背景には、
「私だってファンなのに、なんでチョコや手紙を送った人ばかりそうやって持て囃すの?」と。
本人は持て囃してるのではなくただ感謝や「嬉しかったです」と言った思いを綴っている、
それだけのことなのでしょうけど何もしていない私にとってはすごく気分が悪くて…
たぶんこれも「嫉妬」なのでしょうね。
それに私は、「バレンタインに会社にキャラ宛てにチョコを送る」という行為に意味を見いだせないのです。
キャラは存在しないからチョコを食べられませんよね。
食べるのはスタッフになるわけです。
なのにそんなことをして、何になるんだってのが私の思いです。
そういった私にとっては「無意味」な事をする人ばかりちやほやするのが許せなかった…
んだと思います。

長文すみません。そして愚痴っぽくなって申し訳ないです。では。

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