息苦しい世の中を渡っていく術に心を殺されたくない

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「仕方ない」「そういうもんだ」と言ってたしなめる大人にはなりたくないと思っていました。が、最近そのセリフをしょっちゅう口にしている自分がいます。社会生活を営む上では、そんなことは当たり前、それこそ「仕方ない」「そういうもんだ」ということになるのですが、どうも釈然としないことが多々あります。

小学生の頃、こんなことがありました。

修学旅行のあと、最初の授業で感想文を書きました。で、何だか知らないですが、私の感想文を冊子に載せたいと先生に言われました。

作文は得意ではなかったのですが、その感想文に関してはなかなか味わい深い文章が書けたなと自画自賛していたので、「ほほう、先生はこの趣をわかってくれるのだな」と嬉しくなって、喜んで修正作業に取り組むことにしました。

そして、本気を出して完成させた感想文を先生に提出しました。それを受け取った先生は、嬉しそうにお礼を言ってくれたので、私はとても誇らしい気持ちでニコニコしておりました。

後日、先生は「冊子にのせられるように、ちょっと修正させてもらったから確認して」と言って、赤の入った感想文を私に手渡しました。いざ読んでみると、その感想文からは、自画自賛していた味わいがごっそり削除されていました。

私は呆然としました。そのガッカリ感はいまだに忘れられません。私の人生の中のガッカリ感ベスト3に入る勢いじゃないかと思います。というか、他に同じくらい大きなガッカリ感を思いつかないから、もしかしたら1位かもしれない。それぐらい、気が抜けました。

いや、そりゃ私が取り上げたエピソードはそのまま残ってますよ。でも、そんなの誰が書いても同じようなものです。確か「大仏はとても大きくて驚きました」ということを延々と書いた記憶です。その驚きがいかなるものであったか、大仏さんの佇まい、それと向き合ったときに感じたことをぐだぐだと書き綴ったわけです。そして、そのぐだぐだがゴッソリ削除された。

もうこれは私の書いた文章じゃない。そう思って、すべてどうでもよくなりました。あまりにも見事に削除されているもんだから、先生に訊ねる気力も失せてしまって。だって、この内容がほしいだけなら、もっと上手に書ける子いっぱいいるでしょ? 私の作文を選んだのは、上手くない子の文章がよかったからじゃないの? 先生が美しく整えた文章なら私じゃなくていいじゃない、こんなに修正しちゃうなら最初から先生が自分で書けばいいじゃない、どうせ先生は「イケてない子の頑張りを認められる私ってステキ」って良い先生アピールしたかっただけなんだろうね、そう思って心底失望しました。

その後、先生には「何でもいいです」とか何とか言ったような気がします。あからさまに投げやりな感じを出したんじゃないかな。それはちょっと大人げなかったと反省しています(いや、当時は子供だ!)。先生だって、そうせざるを得ない事情があったのかもしれないし。とは言え、正直なところ、先生は私が大切にしたものを汲み取ることができなかっただけだと思うし、もともとその先生のことが好きではなかったので、先生に対する「キライマイレージ」が大幅に加算され、「期待した私がバカだった」とため息をついて終了したことはよく覚えています。

私にとってはこれが、世の中そうやって体裁を整えなければいけないという学びの原体験とも言えるわけですが、いまだに、このエピソードを思い出すことで納得できることがたくさんあるので、身をもってそれを学べてよかったなと思わないこともない。でも、小学生の感想文にあの改変は必要なかったよねという思いはあります。いつまでも根に持つ代ちゃんです。

このエピソードは些細なものですが、これと似たような出来事によって無気力になってしまうこともあるんじゃないかなと思います。自分が大事にしているものを受け止めてもらえなかったり、がんばった部分をなかったことにされたり。

これを社会的な話に拡大するのは、ちょっと雑すぎるようにも思いますが、「何をやってもムダ」という諦めや、「何の希望もない」という失望感もまったく無関係ではないような気がします。

だって、大事なのは結果、ムダなものは削ぎ落とすという社会の雰囲気は確かにありますよね。そんな中で、本筋とは関係ないへんてこりんな装飾をつける余裕はないし、何の役にも立たないおまけを面白がるゆとりってなかったりしませんか? 毎日を何とかやり過ごすことで精一杯。「仕方ない」「そういうもんだ」と言って、何とか自分を納得させるしかない。

正直しんどい。

でも、やっぱり「仕方ない」「そういうもんだ」と言って何とかやっていく以外に方法が見つからないので、私は今日も「仕方ない」「そういうもんだ」と言いながら、体裁を整えた感想文を書くのです。

そして、ささやかな抵抗として、こっそり不満をネットの海に吐き出す。いつか、たくさんの人たちの嘆きや悲しみが大きなウェーブとなって、社会が良い方向に進んでいったらいいなぁと夢見ながら。

そんな消極的な私ですが、せめて、自分が大切にしたいものだけは、握りつぶすことなく、守っていきたいと思います。

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

はい。

 

<本日の作品>
茨木のり子「自分の感受性くらい」

1 COMMENT

今井啓太郎

私も、小学生の時はアスペルガーで教師に黒板消しで何度も頭を叩かれ白くしていました。60年以上たった今でも鮮明に覚えています、教師ってクズだ!!!!!と・・・
子供を理解できない教師は資格がない、いや、その子供の一生をダメにする、その重大さを分かれと思います。

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