自分で自分を教育する ― イチロー杯でイチローが語った言葉

馬

イチロー杯のニュースを見てから、イチローが語った言葉を時折思い出します。

イチローからのメッセージ 最後の「イチロー杯」で | NHKニュース(archive.today
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191222/k10012224791000.html

この中で、「自分で自分のことを教育しなくてはいけない」という言葉が印象に残りました。

今日はそれに関連して思ったことを書きます。

自分で自分を教育するのは難しいですよね。

まず、自分を律しなくてはいけません。自発性も必要です。先生やコーチがいなければ、すべて自分でやらなければいけない。目標を考えて、計画を立てて、練習メニューを考えて、その他諸々、成長するためのお膳立てを自らすることになります。

正直自分はまぁそれなりに自律性も自発性もある方なのかなと思っていました。でも、実はそういうの全然なかったんじゃないか疑惑が最近浮上しています。

うつになる前の私は、「真面目だね」「いつも頑張っているね」と評価されることが多かったです(内容が伴っているかどうかは別として)。

なぜそうなったのか。それはおそらく10代の頃「軍隊みたい」と人に言われる程度には厳しめの環境に身を置いていて、そのときの規律をベースに過ごしてきたからです。

つまり、自分でそうしようと決めて行動したわけじゃない。ただこれまでの生活習慣の延長でやっていただけ。基本的な態度に変更を加えなかっただけ。言い方を変えればただの惰性です。

サボったり失敗したりすると、厳しく叱責され否定される。その恐怖から逃れるために生活態度を整えて、その環境から抜け出した後も、そのときの恐怖がちょっとしたトラウマみたいになって、それがただずっと続いていただけなんじゃないかと思われるのです。

 
もし当時の恐怖による支配がなかったら、同じくらいストイックに取り組むことはできなかったと思います。

もちろん、人格を否定するような厳しさは不要なものだったし、いまだに口汚く罵りたくなることがたくさんあるのですが、

「厳しく教えることが難しい時代」
「自分には厳しい先生がいたので、なかなかそうは思えなかった」

というイチローの言葉には、何となく自分の経験とリンクするところがありました。

 
あと、厳しさだけでなく、人の目を気にしてしまうことも自分を律するための動機づけになるのかなと思います。

例えば「こんなことしたら何て思われるか」という意識は惰性・堕落を防ぐストッパーになるでしょうし、反対に「よい結果が得られれば、すごいって言ってもらえる、貢献できる」というポジティブな意識もモチベーションを保つのに役立ちそうです。

 

そんなこんなで最近思うんですよね、自分って管理されることに向いているタイプだったのかなと。

人の目を気にして身動きが取れなくなってしまうのは考えものですが、いい感じに頑張るためにはほどよい監視が役に立つのかなぁと。義務感の話にも通じるところがあるかもしれません。

頑張りすぎず、たるみすぎず、ちょうどいいバランスで、自分を教育していく。

何のために?
自分が喜ぶために。
自分はどんなとき喜びを感じるのか?

そのあたりの方向性をまずは模索することから始めたいですね。

 

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