私の「どうでもいい」はまだ足りない/『コンビニ人間』を読んで

ロボット人間・おばあちゃん
ある夜のこと。布団をかぶって眠りにつこうと横になり、天井を眺めながら自分の問題について考えました。

本質的な問題は何か?
どうなったら問題は解決するのか?
自分はどうありたいのか?

思いつくまま答えを挙げて、一通り出尽くしたところで、心の底から「もうどうでもいい」と思いました。それはとても清々しく、久しぶりに気持ちよく眠りに入れました。こんなにも納得感のある「どうでもいい」は初めてで、自分でも驚くほどでした。

この場合の「どうでもいい」は「どのような結果になってもよろしい」ということ。もちろん精神的・肉体的苦痛を与えられたりウシジマくん的地獄に堕ちてしまうのは嫌だという気持ちはあるから、全然どうでもよくはない。けれど、慎ましくやっていれば、そこまで酷いことにはならないでしょうと楽観できるようになったのです。それが適切かと言われると、あまり適切ではない気がするけれど、もうそんなことは知らん。みんな勝手にやってるから私も勝手にやる。そんな感じです。

またいつかのように気がおかしくなって変なものが見えたり聞こえたりヒャッハーしたり、そうなったらそうも言ってられないかもしれないけれど、もうそれだけのエネルギーも残っていない感じだし、その方面でどうにかなる可能性は低い気がしている。だから本当は仕切り直してもうちょっとちゃんと人間をやっていきたい気持ちも少しはあるんだけれど、もうどうしようもない、万策尽きた。たぶんまだまだ策は尽きていないけれど、それを実行するだけの気力や活力は尽きた。少なくとも今はない。

なんてことを思いながら『コンビニ人間』(村田沙耶香著)を読んでいたら、自分の「どうでもいい」レベルは全然たいしたことないなと思いました。

この物語の主人公には、ドロドロとした感情がありません。ただ合理的に考え動いている。ロボットのように。周りから見たら、完全にズレているヤベー奴。でも、その様に惹かれました。

そんなふうに思うのは、自分が紛れもなく人間臭い、くっさいくっさい人間だからなのでしょう。

特に印象深かったのは、他人を見下す人の表情に対する観察眼。誰かを差別するとき、その人はどんな目をしていて、どんな意識を滲ませているのか、その描写がすごい。

実際に自分が見下されたと感じたときには、バカにされた事実に動揺してしまって、そんなふうに冷静に観察できません。でも思い返してみると、まったくその通りなんですよね。感心しながら、しみじみ人を見下す人の様子を思い返しました。

こうやって言葉に変換されると、なーんだ自分はこんなものに怯えて傷ついていたのか、大したことないじゃんと思えるところも面白いです。

が、実際に対面したら、やっぱり動揺してしまうのでしょう。

この心の動きがないのだとしたら、どんなにラクだろうと夢想します。
 

多様性多様性と言いながら、理解できない異物を排除したがる人たちって何なの傲慢で鬱陶しいなクソがという思いを持て余している人にとって、『コンビニ人間』の主人公が言うことは同意できると思います。

同意する、共感するという行動もまた人間的で、よかったりよくなかったりするのかなーとも思ったり思わなかったり。

いずれにしても、それぞれの人生を物語として捉えるのならば、「どのような結果になってもよろしい」ということなのでしょう。

そういうことにしておきましょう。
 

2 COMMENTS

あたま

更新ありがとうございます。
あくまでも私の考えです
自分が納得できる生き方したいです。
ただし、人様には、迷惑かけない程度で。

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