「終わりよければすべてよし」から滲み出る価値観 ― 結果がすべてなのか?

花

「終わりよければすべてよし」

この言葉を聞いた瞬間、私の脳内ではこう変換されます。

「終わり悪けりゃすべて悪い」

誰もそんなつもりで言ってない。「いろいろあったけど、ここまで来られてよかったよね」、そんな意味合いで使われることが多いのだと思います。

でも、「終わり悪くともすべてよし」とは言いません。

料理を作るとき、下ごしらえが雑でも、最終的においしく仕上がればOK。そういう意味では「終わりよければすべてよし」です。でも、仕上がりがぐちゃぐちゃで不味ければ、どんなに手間をかけて具材を美しく刻んでもNGってことですよね? そういうときは「それもまたよし」と言うんですか?

「終わり」とは

「終わりよければすべてよし」の「終わり」とは、いつのことでしょうか。

先の例で言えば、料理が出来あがったとき。仕事のプロジェクトが終わったときや、人間関係のゴタゴタが収束したときも「終わり」と捉えることができます。

もっと長いスパンで使う人もいるでしょう。それは、人生。

「終わり」とは、死ぬとき。

あるいは、今。

人生の中で今日が一番若い日、みたいなやつです。

「終わりよければすべてよし」にモヤモヤするとき

私も「終わりよければすべてよし」と言うことはあります。でも、この言葉にふれたとき、引っかかりを感じることがあります。

どういうときにモヤモヤするのか。それは、この言葉を口にした人がよくなかった部分と向き合うことを放棄しているように見えたときです。別に結果オーライで問題ないんですけど、もし結果オーライじゃなかったらどうしてたんですか? と聞きたくなります。

「あーうまくおさまってよかった」と言えば、たぶん何も思いません。つまり、条件つきであることが気になるのです。「~ならば」と言われちゃうと、それに当てはまらない場合はどうなるんだろう? と気になります。

「終わりがよくなかったら?」

それでも答えが「すべてよし」なら、「よし」とだけ言えばいいことです。条件を示す必要はありません。反対に、「終わりがよくなければ、すべてよくない」と言うなら、その言葉は不用意に誰か(本人を含む)を傷つけてしまう可能性があります。

そもそも本当に「すべて」なのでしょうか? 結果がよければ、オセロみたいに「悪い」が全部ひっくり返って「よい」になる? よくない部分がなかったことになるのなら、そこから学ぶ機会を見逃すことになるかもしれません。

それもまたよし」と似ているようでちょっと違う。「終わりよければすべてよし」 は私をソワソワさせる言葉です。

今だから言えること

今の私はそれなりに「よし」だと言えますが、すべてを肯定することなど到底できません。

過去の自分が今の自分を構成していることはよくわかります。そういう意味では、自分というものを無条件に肯定すべきです。が、それでもやっぱり「すべてよし」と断言することには抵抗があります。せいぜい「まぁまぁ、いろいろありましたけど、よしとしましょうかね」と言う程度。

いや別に断言しても全然かまわないんですけど、やっぱり気になる部分(よくない部分)は少しでもよくなるようにチェックしなければいけないし、きちんと向き合えば向き合うほど「すべてよし」とは言えなくなるよね、という思いがあります。だって完璧はありえないのだから。

もし「終わりよければ」の終わりを今と捉えるなら、今悪い状況にいる人は悲しい気持ちになりはしないだろうかと想像して寂しくなることもあります。

失敗を糧に、同じ間違いをくり返さないよう努力を続けた結果、自分の目標を達成することができた。そういう人が口にする「終わりよければすべてよし」は納得できるな、と思ったところで気づきます。そういう人は「終わりよければすべてよし」とか言わなさそうだよね? 

終わりとは?
本当にすべてなの?
結果がよくなかったら?

これらの疑問は、自分が何に価値を見い出すか知るためのヒントになるのではないかなぁ~と考えています。

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