自分の弱さを認めることが大事。
そんな言葉をよく見聞きします。そうだなと思います。でも、なかなか受け入れられません。
「自分が弱いヤツだって認めたくない。だって、そのために今までいろんなこと頑張ってきたし。強くなった部分もあるし」
そうやって悩んでいるとき、頭の中にはこんな公式がありました。
強い=できる=良い
弱い=できない=悪い
弱いことは悪いこと。特に精神面において、これを疑ったことはありませんでした。
でも、それは正しいのだろうか……?
「心の強さ」とは何か、その答えを探るうちに、自分が何を拒絶しているのか見えてきた気がします。
現状を受け入れられなくて葛藤している方、よかったら一緒に考えてみませんか?
「うつ病になるのは心が弱い人」?
「心が弱いからうつになるんだよ」
面と向かってそう言われたら、ぐうの音も出ません。「そんなことない!」と反発したくなるけれど、実際自分の弱さは否定できない……。
「もっと強い心を持ちたい!」
そこでふと思います。そもそも、心の強さ・弱さとは何だ? と。
「精神力」が示すもの。例えば……
- 努力(困難にめげず、最後までやり通す力)
- 克己心(怠け心にうち勝つ力)
- 忍耐力(苦しみ・つらさ・怒りなどをじっと我慢する力)
うん、強い精神力、身につけたいですね。
とは言ってみたものの、強さ弱さの基準は曖昧です。これらの力をどうやって判断するのでしょう?
結果はあくまでも一つの側面にすぎません。テストで100点取ったって努力の量ははかれない。はかれない以上は比べられません。比べられないものを強い・弱いと断言することはできません。
そして、忍耐力の強さ。これも捉え方によりますよね。
我慢強い人は、弱音を吐かない人。
でも、弱音を「吐かない」のではなく「吐けない」のだとしたら、弱いのかもしれません。「やりたくない」「お前なんかキライだ」と言えない。気が小さい臆病者は多分強くありません。
ただ、病気になるまで我慢し続けたという点においては強いと言えそうです。少なくとも弱くはない。
となると、「うつ病になるのは心が弱い人」が示す意味は?
「柔軟に対応できない」ぐらいの意味でしょうか。だいぶ印象が違いますね。
心が弱いんじゃなくて、バランスの取り方が下手っぴだっただけ。
なぜバランスを上手に取れなかったのか、その理由は人それぞれ。環境や成育歴が関係しているかもしれません。
心の強さ・弱さは一つの例え。適応できないと困るから、解決策を見つけよう。それだけのことですね。
弱いことは悪いこと?
精神面に限らず、弱さには否定的なニュアンスがあります。
強いことは良いこと。弱いことは良くないこと。
それって本当?
強さ・弱さは、力や勢いの違い。大きいか小さいか。多いか少ないか。そのこと自体に優劣はありません。おいしい料理を作るためには、強火・弱火、どちらも必要。なぜ、身体的・精神的な話になると優劣が生まれるのでしょうか?
きっと人と比べることで不幸が生まれるんでしょうね。強さと弱さは相対的なもの。強い人がいるから弱い人がいます。弱い人がいなければ、強い人は己の強さを証明できません。影を描かなければ光を表現できないのと同じこと。
安直な例えになりますが、サバンナの動物たち、ライオンに狩られるシマウマで考えてみます。
弱ければ、食われる。生きていけない。はい、ダメ~。
それを避けるため、弱い生き物には生き延びるための戦略があります。そのおかげで絶滅せずにすみます。でも、弱さは変わっていません。これもダメ?
強い力は対象を押し潰します。相手を傷つける力、破壊力。でも、その強さ自体は否定されません。むしろ称賛される。他よりできることは素晴らしい。
なぜ?
うーん、強い者が生き残ってきたからでしょうか?
そう、生き残った者が正義。存在しなければ、何も主張することはできません。
弱さの意義を示す機会はない。力や勢いに負けて口を開くことはできないのです。何とかそれを主張しても、負け犬の遠吠えと言われるだけ。
うん、仕方ないですね。強さに喜びを見い出している人、それは全然悪いことではありません。ただ、どんなときにも打ち勝つ強さがすべてだと思っている人には届かない。「できないことは悪」だから。どうしようもありません。
努力でカバーできない適性もある
「強さが正義」を主張する人たちの中で弱さを肯定するなんてできない。ただの言い訳みたいだもん。「『できない』と言う奴はダメ人間」なんだもん。
でも、人には適性というものがあります。例えば、運動が得意な人は努力しなくてもある程度できる。元々備わった能力にプラスして努力するから、素晴らしい成績を残せる。
「絵心」という言葉もあります。練習すれば、誰でもある程度は描けるようになる。でも、何にも考えなくても最初から上手にできる人はいる。
勉強だってそう。なぜか勉強は「努力さえすれば誰でもできる」みたいな風潮があるけれど、絶対に能力差はある。
適性がない人は、どれだけ努力してもかなわないことがあるのです。そんなの当たり前。全然悪いことじゃない。なのに、弱い人・できない人は「努力が足りない」と言われます。もちろん努力でカバーできる部分はあります。だから努力は必要。でも、「努力すれば人並みにできる」とは限りません。人一倍努力しても、うまくできない人はいます。
それなのに、弱さやできないことを責めるなんてひどいですよね。えぇ、私のそのうちの一人です。できないことに否定的な人間です。
努力の大小・強弱ははかれないから仕方ないのかなぁ……。
できないことはダメじゃない。
弱くてもOK
「できる」は嬉しい。そして、それを叶えるための「強さ」。どちらも素晴らしいもの。
でも、それが人格のすべてを決めるわけではありません。
だから、弱さを否定する必要はない。弱くてもいいのです。弱いからこそ強くなれるのだから。
よくよく考えてみたら、誰だって強くなっているんですよね。最初はみんな赤ちゃんだった。か弱い存在だった。今や立派に成長して、こんなに強くなって。ほんとにもう母ちゃんは嬉しいよ。って。
「強さ」「弱さ」を他人と比べようとするから窮屈になる。
きっと人格者は「強さ」「弱さ」に固執しないんでしょうね。それはただの結果にすぎないから。自分の持っている力を発揮すること、喜びを手に入れるために努力すること、大切なのはその充実度。
勝ち誇ってドヤ顔する必要はない。そんな暇がないくらい自分の鍛錬に夢中なのです。
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比べたってしょうがないじゃないか。
素材のおいしさそのままに
弱い自分を偽って強く見せようとするからつらくなる。
そういう心の弱さ(?)は克服したいものです。でも、それが人間らしいような気もします。なかなかできないことだからこそ、ありのままを見せられる強さに憧れるのでしょう。
私は自分の弱さを認められずに、虚勢を張ってしまう人間です。
そう言えるようになったら、“強さ”に怯えないで過ごせそうですね。
強い・弱いに優劣はない。できる・できないにも優劣はない。でも、できないことができるようになると嬉しい。だから、強くなりたいと願う。ただそれだけのこと。
私も強くなりたい。力に屈することなく、飾らない自分を受け入れる心を持ちたい。すべてを包み込んでしまうような変幻自在の自由な心。
周りのものに脅かされることなく、穏やかに生きていたいから。
背伸びはしない。
それが私の望む「強さ」です。
【心が弱ってしまったあなたへ】
苦しかったー!!
ずっとずっと苦しくて。
医師にあなたは「ずっと強火で調理されてる状態」と言われました。
弱火にするために少し減薬を始めました。
もっと調子が悪くなるかもしれないけど、自分自身でもコントロールする努力が必要になります。と言われました。
そしていま、その真っ只中です。
どうなるかも、わかりません。
でも、わたしに今一番必要だった言葉をたくさん書いてくれました。
いつも見ています。
あなたの語感はチカラがあります。
ありがとうございます。
するめさん、コメントありがとうございます。このようなお言葉をいただき光栄です。
今までずっと苦しい日々を過ごしてこられたんですね。先の見えない不安もまた心をかき乱します。
自分自身でコントロールすること、これがなかなか難しいんですよね。大切なことだとはわかっていても、何から始めたらいいのやら、といった具合で。
一方に偏りすぎず、バランスを取りながら、ぼちぼち自分に合った方法を探していくしかないですね。
とにかく「今」を生きること。このことを痛感する日々です。
ナミさん、こんにちは。
好きな歌詞に『強くなんて、なくても君の世界〜』ってあります。
ブログの記事を読んだ時に、すぐ頭に過ぎりました。
ナミさんはブログ書いた事で、それを自分が読む事で、今、確かに生きてます。
ナミさんは人を救える人だと思いますよ。
自分は、最近良くなってきて、なんでも良いから始めてみようと思ってます。
多分この病気になると、色々な既存の価値観の違い、世間との孤立、沢山味わいます。考えるのはひたすら、独りでやって、そして自分は唯一無二だって知ります。
双極性障害でも鬱でもパニックでも対人恐怖症でも、it’s ok!笑。
良い悪い、許す許さないも、そうそうないな。と思いました。
ただ自分は生きてるぞ、と。
スイマセン、何が言いたいか分からない、ただこう思えたって事が伝えたかったのかもしれないデス。
ロビンさん、コメントありがとうございます。
ロビンさんの好きな歌詞、誰の歌でしょう。初めて聞きました。
なるほど。確かに、私たちが断言できるのは、自分が存在していることですね。
「今」には過去や未来はありません。「今」しかない。ロビンさんがおっしゃる通り、そこには良し悪しもありません。価値とか社会とかいうものさえもかすみます。
自分という存在はいかなるものか。それを考え出したら、もはや悶絶ですね。
確信的な発見こそがその人自身を救うことになるんだと思います。そのためには、自分で気づくしかないですね。「当たり前」に気づくことは快感です。
かく言う私もまだまだ見えていないことばかり、わかったつもりになっていることばかりです。目の前に広がる世界をまっすぐ見つめられる人間になりたいものです。