人を信じることについて本気出して考えてみた

足を組む男性

相手の不誠実な態度にガッカリしたことはありませんか?

人を信じるのが怖くて、疑心暗鬼になっていませんか?

不安ばかりがつきまとう関係性は、その場にいるだけでつらくなってしまいますよね。

どうしたら、周りの人と良好な関係を築くことができるのでしょうか?

人との向き合うときの態度について、私なりの考えを書いてみようと思います。

人を信じることについて

人を信じるためには、疑いを持つことが必要だと私は考えます。

なぜなら、「絶対に期待を裏切らない人」はいないからです。

かつて私は、好意的に思う相手を手放しに「よい」存在だと考える節がありました。相手は(私が適用している)規範を外れない人間だと信じていたのです。そういう人間性だからこそ、私はその人に好意を持っているのだとも考えていました。好きな相手を自分と同一視していたとも言えます。

それはまるで「正義のヒーローは絶対に仲間を裏切らないし、街の人を放って逃げたりしない。勝率100%で敵をやっつけるんだ!」と言うようなものです。完全に、フィクションと現実を混同していました。

相手の言動にガッカリしたり傷ついたりしてしまう理由

私は、自分が適用しているルールは守られて当然だと思っていました。

なぜなら、自分が設定するハードルは決して高くないと考えていたからです。

私が大事にしていたのは、「相手の気持ちを尊重すること」。

そのために守るべきだと思っていたのは主に次の3つ。

  • 約束を守る
  • 相手が大事にしているものを損ねない
  • 相手の大事なものを傷つけたら謝る

「大事なもの」には、時間や空間や気持ちなど、目に見えないものも含まれます。

「1つ目、2つ目は守れないこともあるけど、謝ることはできるよね」
「相手の気持ちを思えば、難しいことじゃないよね」

そんなふうに思っていました。自分が求めていることは決して多くはないし、相手の気持ちをないがしろにしないことは当たり前だと考えていたのです。

だから、好意的に思っている人がこれをクリアできなかったとき、心底ガッカリしました。好きな人たちを特別視しすぎていたせいで、心がひどく傷ついてしまったのです。とりわけ、自分の気持ちを無いものとして扱われたときのダメージは大きなものでした。

でも、彼らを責めることはできません。

だって私は、一人で勝手に期待して、落胆して、その落差に打ちのめされていただけだから。

相手に完璧を求めて、完璧じゃなかったら失望するなんて、ひどいですよね。

この態度は適切ではありませんでした。

人を信じすぎる人に必要なこと

私は今でも「自分が設定するハードルは決して高くないし、クリアするよう努めるべきだ」と思っています。

  • 約束を守ること
  • 相手が大事にしているものを損ねないこと
  • 相手の大事なものを傷つけたら謝ること

でも、このルールを守る必要はないと考えている人もいるし、何らかの事情で守れないこともあると考えるようになりました。

それに、よくよく考えてみれば、自分もこのルールを完全にクリアできているかと問えば、自信を持って「Yes!」とは言えません。後になって「あのとき悪いことしたな」と後悔することはたくさんあるし、知らず知らずのうちに誰かの大切なものを傷つけていることもあるはずです。

となると、私に必要なのは、

  • 自分が適用しているルールが絶対ではないと知ること
  • 相手がどう行動するかは相手の自由であると知ること
  • 自分が自分を第一に考えているように、相手も自分を第一に考えていると知ること

「そんなことわかってるよ」と思っていましたが、実際には全然わかっていませんでした。人の言動に心底ガッカリしたり、腹を立てたり、悲しくなったりしたのがその証拠です。

だから、もう「絶対に」「完璧に」「100%」期待することはしません。

こうやって文章にすると、「当たり前だろ」と言いたくなるのですが……。

自分の思い込みで判断することがないよう、よくよく注意しなければいけないと自身を戒める日々です。

人を信じるとはどういうことか?

人を信頼することは素晴らしいことです。誰かを信じ、認め、頼りにすることで生まれる絆は、人々の心を結びつけ、大きな喜びを感じさせてくれます。

しかし、人を信じることは、無条件に相手に期待することではありません。必要なのは、自分の望みが果たされない可能性を考えた上で、「それでもなお、私はこれを信じたい」という気持ちを大切にすることだと思います。

だから私は、人を信じるために、疑いを持つことから始めたい。

信頼関係を築くためには、期待や予想に反する可能性に目を凝らすことが必要なのだと痛感しています。

 

最後に

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。ここからは適当なおしゃべりをします。

お察しかとは思いますが、今日のタイトルは、ポルノグラフィティの「幸せについて本気出して考えてみた」をもじったものです。

「幸せについて本気出して かんーがーえーてみたら」というメロティが頭の中で流れていたので、「よーし、私も本気出して考えてみるか」と思いまして。「幸せ」はよくわからないので、最近ふと思ったことを本気出して書いてみました。

この曲の歌詞を初めて聴いたとき、確か中学生か高校生で、けっこう衝撃的というか、新しい感じがして「すごーい」と思ったんですけど、ラジオで誰か(芸能人だったかな?)も絶賛していたんですよね。

「まず『幸せについて本気出して考えてみたら』のフレーズでやられるよね、それで、『君も幸せについて考えてみてよ』でしょ、で、『後で答え合わせしよう』だよ!? かぁ~、やられた~と思ったよね」

みたいな感じで熱っぽくコメントしていました。「わかる-、そうそう、だよねー」と同調しながら聞いていたことをよく覚えています。にもかかわらず、誰が言っていたのかは思い出せないという。リップサービスかな?とどこか冷めた気持ちが同居していたからかもしれません。

それはともかく、ほんと、

「本気出して考えてみた」
「君も考えてみてよ」
「後で答え合わせしよう」

ってのがいいですよね。

私は大抵「本気出して考えてみた」で自己完結してしまうので、共有しようと言えるその心が眩しいのでございます。

でも、現実で周りの人たちと膝をつき合わせて話し合うことはなくても、音楽を通して答え合わせのようなものはしていたのかなぁと思います。

たぶん私がこのブログでやりたいことも、そんなようなことなんじゃないかなという気がします。

あれやこれやと考えてみても、答えは「いつでも同じ所に行きつくの」で、似通ったことばかり書いていますが、言葉を通して、何かよさげな気持ちを見つけるきっかけにしていただたら幸いです。

 

<本日の一曲>
ポルノグラフィティ「幸せについて本気出して考えてみた」2002年

ジャケットに歌詞が書いてあって、カラフルに色付けされているのが可愛いです。

オフィシャル音源(YouTube)は↓こちら。

『幸せについて本気出して考えてみた(short ver.)』 – ポルノグラフィティ Official YouTube Channel

1 COMMENT

藤原雨独

人を信じてしまいやすい私は、がっかりしてしまうことがよくあります。ああ、この人は信じられない、と。しかし、翌日には信用してしまっています。何でだろうとは思いますが、同じことを何度も繰り返しています。
そんな私が救われた言葉があります。
「裏切られた事に胸をはるんだ
信じようとした証拠なんだ」
という言葉。
amazarashiというバンドの
「終わりで始まり」という曲の歌詞の一部です。
私の大好きな曲です。
一度は聴いてみて。

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