お金の多寡に左右される安心感の格差/『18歳からの格差論』感想

『18歳からの格差論』を読みました。

みんながハッピーに生きるためには何が必要なのか、「こんな社会のしくみを作ったらどうだろう?」という提案がわかりやすく説明されていました。

「自分が自分の生き方を決められてはじめて、ほかの誰かが自由を持てないことへの怒りもこみあげてくるのではないか」という著者の言葉には心から納得です。

人に優しくするためには、自分が満たされていないとうまくできません。

自分が満たされていなくても人に優しくすることはできるけれど、自分の喉がカラカラなのに、自分が調達した残り少ない水を人にあげるのって正直つらい。

ちょっとくらいなら我慢もできるけど、いつもいつも我慢させられたら、「なんで私ばっかり」と思ってしまいます。

そんな気持ちで人に優しくしようと思っても、多分それってもう心からの優しさではない。イライラしながら引きつり笑顔で「優しさ」っぽいものを突き出してるだけ、みたいな。

 

政治とか経済とか、難しいことはよくわからないけれど、このままではいけないということは私にもわかります。

最近は弱者に向けられる言葉が「弱い奴は死ね」に聞こえることが多いです。どんなに立派な言葉を並び立てても、突き詰めればそういうことでしょう? と言いたくなってしまう。

そして自分にもそういう考え方があるから、自分みたいな弱くて価値のない人間は死ねばいいのになどと思ってしまいます。それは間違っているとわかっていても、頑固なシミ汚れのようになっているので、どんなに言い聞かせても、簡単には落ちません。

 

世の中を広く見渡せば、私はすごく恵まれていると思います。

だけど、身近な友人知人と比べると、足りないものがたくさんあるように感じます。

持っているものはたくさんあるのに、ない物ねだりをしてわがままだな、贅沢だなと思うと、自分が嫌になります。「もっと心の広い人間になれたらいいのにな~」とも思います。

今の自分について考えるとき、好きでこんなふうにしてるんじゃないという気持ちと、自業自得だという気持ちがあります。

怒り、恨み、悲しさ、後ろめたさなど、うまく言えないけど、何となく心が潰されそうになるような気持ち。

私は毎日自分のことで精一杯です。将来の不安もあります。もしまた重いうつ症状が再発して、死が近づいてきたらうまく乗り越えられるだろうか、反対に躁のスイッチが入って周囲に迷惑をかけたりしないだろうか、という心配の種もあります。

人間は楽観的に考えがちだから(例えば、災害への備えはろくにしないのに、宝くじが当たるんじゃないかと期待するなど)、できるかぎり最悪の事態を想定して備えをしておいた方がいいという考えでいると、「ネガティブだね」と否定的に捉えられることがあります。

そういう心配をせずに生きられるなんて恵まれているね、幸せだね、というのが率直な感想ですが、その人にはその人の悩みがあるのだろうし、私にはわからない苦悩を抱えているのかもしれないし、悪い結果を無視してポジティブに考えることで自分を鼓舞しているのかもしれないから、黙ってのみ込みます。

ただ価値観が違うだけなのに、自分の考えと違うというだけで、好ましくないと決めつけてしまう心の狭い(ように見える)人。そういう人の心のない言葉に傷ついてしまうことも、情けないやら悔しいやら。

せめてそれなりに道理が通ることを言ってくれ、その場限りのめちゃくちゃな思いつきを口にしないでくれ、自分の感情だけで判断しないでくれ、逆ギレしないでくれ、という気持ちを持て余すばかりです。こういうメッセージは、己の矛盾だらけ発言に無自覚な相手には伝わらないらしいから。

と、個人的な愚痴になってしまいましたが、こういうときにも格差を感じてしまいます。

それはたぶん安心感の格差で、考え方だけでは埋められない溝です。

安心感はお金でカバーできる部分が多くあります。お金があれば幸せになれるとは限らないけれど、お金があれば多くの問題を解決できます。貧乏は心まで貧しくするので、それを軽減してくれるという意味でもお金は役立ちます。

だから、お金は大事だなと事あるごとに思います。

今の社会は、お金を自己調達できないと死んでしまいます(生活保護はあるけれど、恥ずかしいことだと感じられて受け取りづらい、恥より死を選ぶ人もいるようです)。

できない人は努力が足りなくて、人の助けを借りている人は甘えているダメな人で、うまくいかないのは自業自得。

そういう考えを表明する人に出会うと、世の中みんなそう思っているように感じて怖くなります。だけど、そういう人ばかりじゃないよ、優しい人もたくさんいるよと言い聞かせる日々。

ここは天国じゃないんだ
かと言って地獄でもない
いい奴ばかりじゃないけど
悪い奴ばかりでもない
(THE BLUE HEARTS「TRAIN-TRAIN」)

そんな歌を思い出します。

『18歳からの格差論』の最後に綴られたメッセージを読むと、大事なことに気づかされます。

なぜできないかを説明するのではなく、未来を創るために何ができるかを考えるのです。僕たちには考え、語りあい、決断をする自由があるのですから。誰もが自分の生き方を自分で決められる、そんな自由で公正な社会の可能性を一緒に考えてみませんか? ひとつでもいい。理不尽なできごとをなくすために!
(『18歳からの格差論』p.112)

「Why」ではなく「How」を。

働かない頭を何とか回転させて考えてみようと思います。
 

<本日の一冊>
井手英策 (2016)『18歳からの格差論』東洋経済新報社

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