谷川俊太郎詩集『私』を読んだ私の感想

葉っぱの上で丸くうずくまるアマガエル

谷川俊太郎さんの詩集『私』を読みました。

あぁ、谷川俊太郎さんは本物だ、そう思いました。そんなことは周知の事実で、わざわざ私が言うまでもないのですが、やっぱりすごい。感嘆のため息がもれちゃうんですよね。

身近な光景を切り取ることで、目に見えない大切なものが表現されています。優しくて、揺るがない強さ。シンプルな言葉が本当の世界を見せてくれます。美しい言葉です。

この感覚をどうやって表現したらいいかわからないのですが、谷川さんの言葉を受け取った瞬間に、私の世界は変化するのです。内側の世界が広がるような、外側の世界が自分の内面に広がるような。一瞬にして宇宙に飛び出すと言ったらいいでしょうか。当然のことながら、宇宙飛行士のようにロケットで宇宙に飛び出したことはないのですが。

谷川さんは決して難しい言葉を使っているわけではありません。それなのに、こんなにも広がりがある言葉。私を、今見ている世界とは別の世界に連れていってくれる言葉。人はワープできるんですね。言葉によって。

この詩集の中で、谷川さんは言っています。

ここに述べていることはすべて事実ですが
こうして言葉にしてしまうとどこか嘘くさい

言葉は不思議なものです。言葉が世界を作っている、と聞いたことがあります。谷川さんの詩を読んでいると、それを実感します。目の前にある世界が違ったものに見えてくる。そこに大切な“何か”が宿っていると確信する。すると、心強く思えるのです。

ごはんの湯気で、私は宇宙へ飛んでいく。

生きる意味を見失った原因

病気になるまで、私はがむしゃらに突っ走ってきました。詩を味わう余裕はありません。効率良く内容を取り出すだけ。理解するだけ。行間にひそむ大切なものの気配を感じても、実生活に役立つわけじゃないと見向きもしませんでした。そうやって「大切なもの(偽物)」を追い求めてきた結果の今。

もちろん、素晴らしいこともたくさんありましたし、学ばせてもらったこともあります。

でも、全体を見渡してみると、手放しに「よい」とは言えないなぁと思います。自分を大切にしていなかったこと。自分を痛めつけるのが大事だと思っていたこと。いえ、自分を律し、鍛えることで成長する、それはよいことです。でも、私は目的を見失っていたので、行き詰まりました。軸がブレブレで、何のために頑張っているのかわからなくなっちゃった。本末転倒ってやつですね。

そんな私に必要だったもの。谷川さんの詩にはそれがあります。でも、だからといって、全力疾走していたかつての私にそれをすすめたとしても、きっと伝わらなかったでしょう。それぐらい必死だったんですよね。「わき目もふらず」、まさにそんな感じでした。

なぜ、そんなに必死だったのか。自分に自信がなかったからです。他人の評価がすべて。評価してもらうために頑張る。嫌われないために「善い」とされることをする。「人の役に立ちたい」、それさえも評価してもらうため。

でも、そんなことしなくても「私」が脅かされることはなかった。心をすり減らして、生命力を失って、死を願ってしまうほどに心身を酷使してきたこと。大事なことを考えない怠惰、己の未熟さ。苦笑してしまいます。まぁ、そこまで暴走したことは、それはそれですごいことですけどね。

穏やかな気持ちで生きるには

病気は、自分でコントロールできない部分がありますし、気の持ちようで治せるものではありません。心の病気も体の病気も、なるときはなる。その人の努力不足とは言えません。

ただ、私自身のことをふり返ってみれば、病気にならないための努力はできたなと思います。外から帰ったら手洗いうがいをするとか、プールで泳ぐ前は準備運動をするとか、足の骨を折ったら走らないとか。そういう予防や心がけ。

そして、誰かの基準で考えるのではなく、自分の能力を無理なく発揮できる方法で進むこと。そのとき必要なことは何か見極めること。例えば、体調を崩したら、ちゃんと休んでエネルギーを充電するとかね。

人それぞれ病気になるまでの経緯は違いますし、治療法も回復具合も個人差があります。そういう医療のアプローチについては、医師や専門家を信じて治療に専念するのみです。

順調に治る人もいれば、なかなかよくならない人もいるでしょう。苦痛が続くのはつらいことで、その心境を思うと何とも言葉が見つからないのですが、それでもきっと何らかの方法があると私は信じたい。と言ってるそばから、「そんなのキレイごとだ」という言葉が頭をよぎるんですけどね。でも、そうじゃないんです。例えば、谷川さんの詩に表現される世界を感じることができれば、必ず「そうか」と納得できると思うんです。痛みは消えなくても、穏やかな気持ちは生まれると思うんです。

うーん、うまく言えないですね。

私をいい感じにしてくれる源

何もできずに自己嫌悪ばかりの毎日。私は悩みました。きっと誰もが思っているようなことをあれやこれやと。思考力が低下しているので、冷静には考えられません。妄想に近いような症状を感じながら、やけくそになっていた部分もあります。そんな状態が良かったのか悪かったのかわかりませんが、時間をかけて考えるきっかけになりました。「考える」というよりは「感じる」「見つめる」と言うのが適切かもしれません。

そこで見つけたもの。

それが今、私を支えています。安心感を与えてくれて、自由を感じさせてくれるもの。いえ、ものじゃないんですけどね。そんなものありません。ないけど、あるんです。なんじゃそりゃ。

そんな、なんじゃそりゃな“何か”を谷川さんの『私』で感じられたので、嬉しい気持ちになりました。本物に触れられた気がして穏やかな心持がしました。これが「真理」というものでしょうか。

全然うまく言えている気がしませんし、誤解されそうな気がして公開することをためらってしまいますが、伝わる人にはきっと伝わると思うので、それを信じて拙い言葉ではありますが、ここに置きます。

『私』 大切にしたいですね。

 

2 COMMENTS

ロビン

こんばんは。

詩は余り詳しくないんですが、谷川俊太郎さんは知ってます。

ナミさんは何かしら腑に落ちたんでしょうね。詩は心に透き通る時ありますよね。

最近、もう仕事出来ないんじゃないかなぁ、とか、スタバで人の流れ見ながら仕事してない=悪ではないけど罪悪感との紙一重だなとワイパックス片手に。。。
なんだか滅入ること多くて。

人は1人だけど、こんなにも1人なのかと。考えちゃって。

ザワザワするし、ドキドキするし、起きたら緊張してるし、軸がブレてユラユラしてるから、他人に依存しそうになるけど、そこは違くて、でも、もう。もうっ!
ってなってしまい、やり過ごしています。

そこで文学や絵画や音楽やの登場です。確かにブレて不安定ではあるんですが、そうゆう時ほど、ピンポイントで刺激して来るフレーズや、詩が無理なく入って来るんですよね。

いつもブログ読ませてもらい、ホッとしたり、成る程〜とか、ホントちょっとした拠り所じゃないけど、そんな感じで読ませて頂いてます。
ありがとうです。

それと自由を感じさせてくれる何かって、何だかすごく意味あるものだと思ってますよ。

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ナミ

ロビンさん、コメントありがとうございます。

そうですね。研ぎ澄まされた言葉のパワーはすごいなぁと思います。

文学も絵画も音楽もそうですね。その時々で、心を動かされるところが違って。それもまた自分の心境を知る手掛かりになりますし、何より支えられることが多いですね。

当たり前の生活を当たり前に送っている人たちを見ているときに感じる距離感。心が弱っているときほど、何とも言えない心持ちになります。罪悪感もまた心をざわつかせますね。不安は尽きないものですが、自分にできることを一つ一つ積み重ねていくことで、少しずつ前進していけたらいいなぁと思います。

いつも私の拙いブログを読んでくださり、ありがとうございます。このようなお言葉をいただき、光栄です。

頑張るためには、ゆるゆるすることが何より大事だと思うので、これからも心身のコリがほぐれるようなダラダラブログを続けていきたいと思います。

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