周囲の人に見下されていると感じることはありませんか?
私は常に見下されているに違いないと思っています。おそらくそれは正しくありません。でも、傷つかないための防衛手段として、そのような思考を否定せずにいます。
こういう考えは、俗にいう「被害妄想」に通じます。日常生活に支障をきたす病的なレベルまでいかなくても、猜疑心が強まれば精神は擦り減ります。
劣等感もものすごく強いです。高い能力を持つ人への憧れがイコール劣等感となっているようで、素晴らしい人を眺めては、己の至らなさを嘆いてばかりいます。
さらに、自分に自信がありません。ある具体的な物事をうまくできないという意味の自信ではなく、この社会で生きる自分という存在の価値が揺らいでしまうような、幻想ともいえる自己不信(という言葉はあるのでしょうか)です。
もはやこれらのネガティブイメージは洗脳に近いと言えます。きっかけは何か外的なものによって植え付けられたのだとしても、それを大切に大切に育ててきたのは自分です。
思い込みの力は大きいものです。私は自分の考えが思い込みであると薄々気づいていながらも、それを手放すことができません。傷つくことを恐れているからです。本当は一歩を踏み出せるのに、危険だからととどまっている。地雷が埋まっているかもしれないという現実離れした予測や、自分の足かせとなっている過去の出来事を言い訳にして。
「どうせ私のことこう思ってるんでしょ」
それを思っているのは誰か? ほかでもない自分です。
人をバカにする、見下す、見くびる、軽く見る。現実にそういう態度を取る人はいます。
テレビを見ていてもたま~にそういう態度がチラ見えしている人がいます。お笑い芸人さんが作り出す笑いとはまったく違って、ちょっとした会話の端々にあらわれるものです。人の劣っている部分を見て嗤う(わらう)。この場合の「嗤う(笑う)」は、あざけるような意味合いです。大変に不愉快です(まあ、テレビに関してはそういう人を見つけるのが楽しいという側面も少しはあります。他人事だから)。
そういうとき思い出される、人をコケにしたような態度。醜い顔。
きっと多くの人が出会ったことのあるものではないでしょうか。
そんなもの興味がないと相手にしないでいられるハートがほしいものです。自信のなさは相手につけ入るスキを与えます。いつでもマウントポジションを取りたがる人は、そういう部分をめざとく見つけます。
そう、相手にそんな態度を取らせているのは私の方なのかもしれません。
劣等感も、卑屈な考え方も、自信がなさそうな態度も、自分にとってプラスにはなっていません。いや、中にはこれらの感情をバネに「見返してやる!」と発奮することもあるので、プラスの部分もなくはない。ただ、「どうせ私なんか」といじけていると、惨めさが増すばかりです。
自分が思っているよりは、人は自分のことを見下していません。腹立たしい人間もいるけれど、そうじゃない人もたくさんいます。
見下されることを恐れるなら、自分にできることをコツコツ積み重ねて成長するだけ。そうする過程で、きっと自信もつけられます。
「どうせ私のこと劣ってると思ってるんでしょ」
― 誰がそう言ったの?
劣等感や卑屈な考えや被害妄想が発動したとき、自分自身に問い返したい言葉です。
初めてコメントさせていただきます。
文学寄りな人間です。
いつも励まされ、救われております。
ありがとうございます。
リアクション無くても、多くの人に希望を与えている事に、自信と誇りを持って欲しいと思います。
ナミさん、
きょうお友だちの結婚式に出席して、まあそこそこ普通に過ごせたのですが、家に帰って、闇が爆発しました。
愛し愛される人がいる嫉妬ではありません。
精神が健康的な家庭で育てられるっていいなあ、もう産まれてきた時点で勝ち組じゃん、なんて思ってしまいました。
親がふたり仲良くいる時点でその子どもは“一般的な”幸せな結婚ができるんだなあ、なんて思いました。
なんかもう辛いですー
持って無いものが大きすぎて。
もうわたしも大人だから、人のせいにして生きたくないのに、こんな風に考えてしまいます。
たぶんきょう相当疲れたんだと思います!寝ます!
毎日なんやかんやありますね、
おかげさまで退屈しませんわー。苦笑