本を読んでいて、「気遣い王」という表現が目にとまりました。
筆者は親しみを込めて友人をそう呼んでいるようです。
「気遣い」と「王」の対比が面白い。
が、何だかどうにも引っかかる……なぜだろう?
というわけで、ちょっと考えてみることにしました。
なぜ私は「気遣い王」という呼び名に引っかかったのか。
「王」という言葉に「やりすぎ」「過剰」といったニュアンスを感じるから? 「そんなにしなくていいのにってとこまで気を回すよね~笑」みたいな? それって褒め言葉?
あるいは、人をポップに要約していること? でも親しい友人同士の愛称ならば、外野が文句をいう筋合いもないしなぁ。
となると、それを本に書いていること?
……うーん、どうなんだろう。
もし違う言葉を使っていたらどうだったでしょうか。
たとえば「今日も気を遣ってくれた」とか「こんな気遣いができる」とか。
これなら素直に素敵だと思ったかもしれません。
が、「気遣い王」と呼んだ瞬間、そのホンワカ感が消える。
「気遣いをしてくれた」と言うとき、その視線の向く先は、その時々の行動です。一方、「気遣い王」と呼ぶとき、その視線が向く先は、その行動単体ではなく、その人の全体像。そうやってその人を一つのイメージとして捉えると、ピントがズレて、細かな部分がぼやける。それがなんだか居心地悪いのかも。
あとは、どの場面でその呼び名を使っているかという点。親しい間柄での愛称なら、私が何か言う立場にはありません。ただ、それを本に書くと事情は変わります。公になった愛称は、内輪の呼び名ではなく、読者向けの紹介ワード、「この人はこういう人です」という言葉になる。そういうところにも、私は引っかかっているのかもしれません。
以前、あまり親しくない人から「天然だよね」と言われたことがあります。たぶん、親しみを込めた軽い冗談、あるいは面白い個性として言ったのでしょう。でも、私は不愉快でした。
「天然」という言葉には、「本人は気づいていないけれど、ちょっと変わったところがある」という響きがあります。その言葉を言われた瞬間、私は相手から観察され、評価されたように感じました。それが嫌だった。「あなたは私の何を知っていると言うのだ」と、その決めつけのような言葉に反論したくなりました。
となると、私が引っかかっているのは、ラベリングというより、安易な決めつけ?
「天然」にしても「気遣い王」にしても、こういうわかりやすいラベルは、時にフィルターとして機能してしまうんですよね。何をしても「天然っぽい」「やっぱり気遣いの人は違うね」という見方になってしまう。ラベルは便利ですが、一度与えられると独り歩きしやすい。その人の一面をクローズアップして、他の部分をスルーしてしまう。それがくり返されるうちに、その人が固定化される恐れがあります。
もちろん、私も心の中で、他人にラベルを貼ることはあります。「何なんだこの人は」とイラついたときには、「思いつきで言葉を発する人」「話を聞く余裕がない人」「記憶保持が苦手な人」といったラベルをとりあえず貼る。そうやって特徴を単純化することで、気持ちを落ち着かせます。
でも、これはあくまで仮初めのラベル。頭の中を整理したり、波立った感情をなだめる目的で使われるもの。「この人はこんな人です!」と人に説明するためのものではありません。
というわけでまとめると、私が「気遣い王」に引っかかった理由は……何?
「キャッチーなワードでわかった気になるなよ!」という危険予知? 警告?
まあそうですね、ラベルは理解を助ける一方で、人を見えなくもする。
そんなこんなで、理解のためのラベルと、人を紹介するラベルはきっちり区別していきたいなと思った所存。
複雑なものを複雑なままに。
「この人はこういう人だ」と言い切ることには慎重でありたいなと思ったある日の午後でございました。
