益田ミリさんの『そう来る?僕の姉ちゃん』を読みました。
姉と弟が会話する漫画です。いや、漫画でいいのかな? コミックエッセイのような趣? ってつまり漫画なのか。でも、益田ミリさんの作品って漫画カテゴリなの……?
とにかく、読んでいてとても心地よく、すごく面白かったので、何か書きます。
まず、この作品の魅力といったら何と言っても、ゆるっとした雰囲気。とてもいい。ホッとします。なのに、ふとしたところで核心を突く瞬間があり、その思いがけなさに引き込まれます。急にハッとさせられるわけですね。その瞬間がたまらない。「ホッ」から「ハッ」です。それをつなぐのが各所の「ふふっ」。
この「ハッ」は対話形式だからこその表現なんですかね、だって、思わぬ方向から球が飛んできた!みたいな意外性って、一人称の語りじゃなかなかできないですよね。ランダム性が生み出す、みたいなことでしょうか。これこそが対話の醍醐味なんだろうかね~などとその味わいを噛み締めておりました。
で、思ったんです。最近このブログを書くとき、架空の人物二人に対話させて下書きを書いているんですよ。それが『僕の姉ちゃん』の対話とちょっと通じるとこあるなと思って。
思いつくまま一人称のみで書いていくことももちろんあるんですけど、特に言いたいことがあるわけでもない一言メモからスタートするときには、会話形式が最適なんですよね。架空の二人に会話させることで、ほどよく話を膨らますことができます。
一人頭の中で考えていても、意外性のある切り返しはできないし、メリハリもきかない。小さく自己完結して終わることも多々ある。でも、別人格を登場させることによって、一人称で考えるよりは変化を出しやすい。喋らせる人が変わることで、思考が切り替わるから。
もちろん、世に出た作品のような明確なキャラ設定はないのですけれど、一応何となくの人物像はありましてですね、少なくとも2つの別個体がいますよっていう。ここがポイントです。2つの別個体がいるって、それだけで視点が2つになりますからね、それがたとえ似た者同士だったとしても。
あと、相槌を打ってもらうことで、話すほうがノッてくるっていうこともあります。その結果、脱線することも多いのですが、どんな内容であれ、対話させるってことは、それぞれの別人格が、相手に伝えようとするってことで、それは当然、独りごちるのとは違った表現になります。出力する以上は、伝えるための形に整えなければいけないですものね。
そう考えると、一人でぼんやり考えているときって、実はなんにも考えていないのに等しいのかもしれないと今気づいてしまったのですけれど。いや、言葉未満の状態で何かしらを感じとっているわけだから、「なんにも考えていない」というのは言い過ぎか。言い過ぎですね。言葉未満の状態を出力する際に、対話形式で書き出していくのはグッドだよということです。( 「考える」と「感じる」について、前にも書いたことを思い出しました:「考えさせられた」「何を?」「わからないけど、何かを感じました」という印 )
自分が生み出した架空の人物二人の対話って、生成AIと対話するのとはどう違うのでしょうね。ランダム性でいったら、AIのほうが思いがけなさありますよね。自分が想定しない答えをくれるから。
とはいっても、生成AIって、「こうきたらこう」という膨大なパターンから導き出されてるだけなんですよね~。意外性があるように見えても、それは構造化されたものにすぎない。感情が動いたわけでもなければ、その反応によって出力された言葉でもない。
そう考えるとちょっと寂しさや虚しさも生じてくるわけですけれども。あくまでもパターンだから、模範的な回答にもなりやすく、時にそれが忖度してるように見えることもままあります。かと思えば普通に間違ったことを言うし。いかにも正しそうなテンションで。
でも、考えてみると、人間でもしょーもない嘘を真顔で言ってくる人いますよね。あれよくわかんないんですけど。どういう意図? 面白いんですかね? しかも、ネタばらししないままの人もいません? ますます意味がわからない。
まあ、いろんな人がいるよねってことで、いろんな人と対話しましょうって話?
はい、多分そういうことです。
対話は大事!