しんどいときって、しんどいですよね。
もうこれ以外に表しようがない。しんどいもんはしんどい。
しんどいのはつらい。つらいのはいやだ。いやなことはやめたい。でもやめるわけにはいかないからしんどい。
私には何もできないけど、聞くことならばできるから、いつでもその気持ちを伝えておくれ。
そんな思いとともにブログを書いています。
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ここ数年、命の危険を感じるような希死念慮は少なくなってきました。が、完全に消えたことはありません。和らいだことは一度だけあって、そのときのことはブログにも書いたのですけれど、結局その後は元通り。双極症の解説本には、寛解後も軽い症状が続くことがあるとよく書かれているし、私のこの「死にたみ」もその一環だと思っています。
ふと思い出したのは、2014年の秋頃のことです。その頃、体調が非常に不安定でした。御嶽山噴火のニュースを見て「どうして死んだのが自分じゃないんだ、自分が死ねばよかったのに」と、四六時中自分をころしたい衝動に駆られていました。
誰かが似たような心境を吐露しているのを聞くと、「わかる、わかるよ……」とつぶやかずにはいられません。心の中で深く深く頷きます。
こうした気持ちはそうそう言えることじゃないから、心の内に秘めておくしかありません。でもそんな状態で過ごすのはつらくて、現実を見ると悲しくて苦しくて、自身の現状を見れば惨めでやりきれなくて、将来を思えば不安しかない。
あのときはどうやってやりすごしていたんだっけ……。
今思うと混合状態だったのかもしれません。だから、まったく何もできないわけではなかった。でも、死に取り憑かれたような状態で、ほとほと困っていた。というより嵐に巻き込まれているような感じだったから、「困る」という状態でさえなかったと思います。
死にたい気持ちに襲われたとき私が実行する第一の選択肢は「寝ること」。眠れないときは頓服薬の力を借りて寝る。それ以外の時間は音楽をかけて気を紛らわせる。今でもそうですね、ずっと同じ対処法でやっています。
今振り返ると、詩の力に助けられることが多かったかもしれません。当時はそれほどたくさんの詩を読んでいたわけではなかったけれど、さまざまな言葉に助けられたのは確か。自分と似たような思いを綴っている人のブログを読むとか。
もしペソアやシオランを当時読んでたら、かなり救われる気持ちになったんじゃないかと思います。……いや、でもどうだろう。わからないな。そのときになってみないとわからない。でも、過去のあの自分を一番知っているのはこの私であることは間違いないのだし、少なくとも的外れではないでしょう。
ペソアの詩で、今も出典元がわからず探している一節があります。
希望なき沈黙の中で話すことを夢見る
手が届かないからこそ完全さに憧れる
手に入れば拒むだろう
完全さは人間性を奪う
なぜなら人間は不完全なのだから
この詩は、2015年の映画『セックスで繋がる3つの世界(原題: ZOOM)』の劇中で引用されていたものです。
「知りたい」という気持ちもまた、次の一瞬へ自分をつなぎとめてくれる力になったなぁと思います。
何度も読み返しました。
ありがとうナミさん。