「浅いか深いかで言ったら浅い」
そんな映画感想コメントを見かけました。
これはどういうことでしょう?
そもそも「浅い」「深い」の二択で分ける必要ないじゃんという思いがまずあるのですが、その人の言わんとすることもわからないことはない。
他の作品と比べているのですよね。
私はその作品について「深い」とも「浅い」とも思いませんでした。ただ「いい作品だな」「好きだな」と思った。だからこそ、「浅い」とのコメントに「何ィ~?」と思った部分もあるんでしょうけども。
「浅いか深いかで言ったら浅い」ということは、その人にとって深い映画が他にあるということ。それを私が知らないだけかな。
でも、何をもって「浅い」「深い」と判断されるのでしょうか。それがよくわからない。
とはいえ、自分も「なんだこれは薄っぺらな作品だなー」と思うことがあるから、私の内にも深みの基準はある。って「浅い/深い」と「薄い/厚い」は別物か? まあいいや。
深みの基準って何?
薄っぺらであることはわかっても、深みがあるかどうかはわからないってこと、ないかしら?
たとえば河川。川の深さってわからない。浅瀬だと思っても、場所によっては足を取られて溺れてしまうこともあるわけだし。まっ平らな地形ではない。
となると、私が薄っぺらだと思った作品も、実は深みがあったのかもしれないし、そうじゃなかったとしても、別に浅瀬でちゃぷちゃぷ遊ぶのも楽しいんだから、それはそれでいいじゃんという話。でしょうか?
そんなことを考えているなかで、あるエピソードを思い出しました。
淀川長治さんについて、高橋源一郎さんが書いていたことです(『居場所がないのがつらいです』より)。
淀川さんは、「どんな四流映画でもほめなさい、どこかにいいところがあるはずです」といって自身も実行したそう。私も似たような話を聞いたことがあります。雑誌等の論評では辛口毒舌で時に酷評することもあった淀川さん、長年解説を務めた「日曜洋画劇場」では一切作品を批判しなかったとか。
キリストを描いたある「凡作」を評して淀川さんはこう言ったそう。
「十字架を担いたイエスが階段を上がるたび、その十字架がぶつかって、ガタン、ガタンと音がします。なんて悲しい音。あんな悲しい音は聞いたことがありません」
これを受けて、高橋さんはこう言います。
「やられた」と思いました。そこにはあふれる映画への愛があったのです。上から目線で「凡作」と考えた自分が恥ずかしかった。けなすのは簡単。ほめるためには、愛とスキルと見る目、なにより感受性が必要です。頑張ってほめましょう。世界をもっと豊かにするために。ぼくもほめます!
確かにそうだ、私も上から目線になってたな、もっとほめよう! そう思いました。
否定するのは簡単。「私の知ってる○○と違う」「私が考える□□から外れている」と示すだけなら誰でもできる。
見る目を養い、言葉を尽くして語れるようになりたいものです。
そのために、まずはいろんなことを頑張ってほめようと思います。
誰も気づいていない、素晴らしいところを発見する作業をする。
そう考えたらちょっとワクワクするかも。
つづき
『居場所がないのがつらいです:みんなのなやみ ぼくのこたえ』感想