精神障害を抱えている。周りは出世したり結婚したり、どんどん次のステップに進んでいる。なのに私は何も変わらない。何もできない。必要とされていない。お金もない。将来が不安。
そんな類の悩みを見つけると、めちゃくちゃ共感してしまいます。あーめっちゃわかるぅ~!
私もほんとにイヤと言うほど自問しましたが、結局これといった答えはありませんでした。今も解決しないままです。きっと婆になったら、「周りの人は孫の話をしてるのに私は……」みたいになるんでしょう。でも、そういう年齢まで生きる可能性を考えることの方が恐怖が大きいですね。やれやれ、悩みはつきません。
で、もし自分が回答者だったら、どんな答えを提示するだろうと考えてみました。
けど、言えること、何もないなぁ~と思って、「つらいよねぇ~~~」と一人勝手に共感して、顔と体を小刻みにプルプル震わせるのでした。
他人の人生相談に回答するのは難しいものです。
せいぜい話を聞くことしかできないんですよね。あるいは、自分の体験談を話すくらい。
結局、自分の好きな人や尊敬する人に「そっか、そうなんだ」と受けとめてもらえたら十分だし、それがベストアンサーなのかなという気がしました。具体的な解決策を提示できない答えのない問いに対しては特に。
好きとか尊敬までいかなくても、「この人になら話してもいい」と思える相手を見つけられたら、それってかなりすごいことなのかもしれません。
あとは仲間を見つけること。自分だけじゃないと思えることは、けっこう大きいですよね。精神的な支えになることも多いと思います。
で、なんでこんな話をしたかというと、ちょっと微妙な回答に出くわしたからです(正確には、内容ではなく回答者の態度)。
もちろん、回答は多様なほうが良い。いろいろな見方を知ることで、狭まった視野が広がることは多いから。
ただ、相談者のことをちゃんと見ていない回答者はイヤだなぁと思いました。カッコいいこと言ってやろうという意識が透けて見えたり、自分をよく見せる回答を提示してみたり。自分の宣伝やブランディングになっちゃってるやつです。
まあ単に、なんて言ったらいいかわからないから、自分にできる回答をしただけなのかもしれませんが。
そういう回答者を見て、わからないなら「わからない」と言えばいいんだよなと思ったのでした。
変に取り繕ったり「良いこと言わなきゃ」と力む必要もない。素直に答えればいい。ただただ、相手の立場に立って想像してみる。
それがなかなか難しいという話ではあるのですが。
メディアに掲載される人生相談コンテンツは、身近な人にする相談とは別物です。
人生相談に回答するのは難しい、聞くことしかできないとわかっていても、コンテンツにする以上、何らかの回答はしなくちゃいけないわけだから大変です。
「うん、うん、そうなんだ……」「つらいね」「難しいね」という相槌だけでも成り立たないわけではないと思うけど……いや、新聞の人生相談でそんなの載ってたら「おいおいおい」ってなりますね。別に相づちを打ってほしいわけじゃないし。
そう考えると、鴻上尚史さんの人生相談って本当にすごいですよね。
鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい『世間』を楽に生きる処方箋 | AERA dot.
鴻上さんの向き合い方には感服します。
思わず、「自分も話したい」「私の話も聞いてほしい」と前のめりになっちゃう。
こうやって人と向き合えたら素敵だなぁと思わせてくれるあり方です。
人生相談に回答するのは難しい。
けれど、だからこそ、ただただ相手の話を聞こう。
そんな思いを強くしました。
心を開いて話したのに、本文にもあるような「ちゃんと見ていない回答者」に、さらに傷付けられたことで、もう自分は貝になるしかない、と失望しながら暮らしていました。
(ラジオの人生相談など、まるで相談者メッタ切りのように思えて余計恐ろしくなりました…)
今は、依存症回復の自助グループとつながり、「言いっぱなし聞きっぱなし」のルールに助けられています。相手の話を黙って聴き、自分の話も割り込まれたりさえぎられたりしません。自分も話していいんだ、という安堵と、ずっと黙らされてた…という怒りを感じました。その怒りは、また後日にグループの中でお話しさせてもらいました。
安心して話し、「恐れ」が小さくなるうちに、回答は出てくる…のかもしれません。