あなたは今しあわせですか?
と質問するとき、それは一体どういう意図なのでしょうね。聞かれた方は、まず問いたいですよね、「あなたが言うしあわせの定義は何ですか?」と。
まぁ、本当に教えてほしいと思っているわけじゃないんですけどね。必死こいて考えるまでもなく、“しあわせ”にはある程度の共通認識があります。そして、その一般的なしあわせのレールから外れるとしんどいよね、という話を今からします。
「しあわせコース」から外れると、いろいろめんどくさい
普通のしあわせとは何か、これまでにも何度か書いておりまして、その条件をまとめるとこんな感じです。
- 生活に困らない収入
- やりがいのある仕事
- 結婚して家庭を持つ
- 健康、大病にかかっていない
- 趣味や交際ができる余裕
- 老後の蓄え
これが叶ったらしあわせ。なんて素晴らしいことでしょう。うん、ほんとに、これをすべて手に入れられたら、卑屈な感情がちょっとは和らぐ気がします。とても魅力的な「しあわせコース」。
このしあわせを手に入れるために努力することは素晴らしいことであり、健全なことです。そして、その生き方を普通のもの、当たり前のものとして捉えている人は多いのだと思います。私もそうです。中には、その価値観を絶対的なものだと信じて疑わない人もいます。
そして彼ら彼女らは言います。
「仕事は?」「趣味は?」「恋人は?」「結婚は?」「子供は?」「学歴は?」「収入は?」「楽しみは?」「生きがいは?」
はぁ……。
「しあわせコース」の進捗状況を尋ねられているだけだとわかっていても、彼ら彼女らの言う「しあわせコース」から外れてしまった者は笑顔で答えられません。顔で笑って心で泣いて「No」と言う。
あーめんどい。
脱落者が少数派のしあわせを求めるのはしんどい
彼ら彼女らは言います。
「仕事や結婚がすべてじゃないしね」「みんなの幸せが本人の幸せとは限らないしね」「生きているだけで素晴らしいよね」
なのに聞くのです。
「仕事は?」「趣味は?」「恋人は?」「結婚は?」「子供は?」「学歴は?」「収入は?」「楽しみは?」「生きがいは?」
ありのままの事実を知りたいというより、持つべきものを持っているかの確認。
相手が「しあわせコース」を信じているか否か判定するリトマス紙があります。例えばコレ。
「いい人なのに、なんで独身なのかねぇ?」
よく聞く言葉です。私も自分がこういう状況なる前、10年前にはよく言っていました。素朴な質問として無邪気に。言ってる本人にそのつもりはなくても、「結婚する」を選択することが前提の考え方です。だから、「結婚する」を選ばなかった人=「結婚できなかった人」と決めつけてしまう。
「しあわせコース」は多くの人にとっての共通認識。「それがすべてじゃない」と言いつつも、根底では「しあわせコース」をたどることこそが素晴らしいと信じています。
だからこそ、「しあわせコース」に希望を見い出していた人がそこから脱落すると、どうしようもなくつらい。
今更「しあわせコース」がすべてじゃないとわかっても遅い。少数派のしあわせは見向きもしなかったし、そのための心構えを知らないのだから。
多数派に甘んじてきた人間が、「みんながそう言うから」を根拠にできないのは、すごく不安で心細いものなのです。
あーしんどい。
多数派に流れた方が楽だし最高
なんの疑いもなく、普通のしあわせ・当たり前のしあわせを享受している人の考えのなさを指摘することで、やりきれない思いを慰めることはできます。
でも、多数派に流れることは必ずしも悪いことじゃないし、その答えは多くの人が支持するだけのことはあって、それなりに無難で安全な選択であることが多いものです。そして何より楽だから最高です。
多数派の「しあわせコース」に合流したいのに、どうやってもできない人はしんどいですね。欲しいものを手に入れられないのは悲しいし、自分が進むべき道を自分で考えなきゃいけないし。「自分にとってのしあわせとは何か?」、別に考える必要はないですけど、しんどくなったときに問いたくなるじゃないですか、「私は何のために生きてるの?」って。できればその答えを用意しておいた方が、いざというとき少しは役に立ちそうですよね。(死ぬことしか考えられないほど苦しいときには何の役にも立たないかもしれませんが)
しかしながら、そういう類の問いに答えるのは超難関。考え続けるのも楽ではありません。だから、誰かの答えに乗っかってしまいます。その結果出てくるのは、ありきたりな言葉ばかり。
そして、気づくのです。
結局、自分も多数派なのだ。
多数派に流されるのは楽だし、それは最高に贅沢な怠惰。
水は高いところから低いところに流れていく。
実に自然なことである。
「多数派・少数派」より「多様性」
私は「しあわせコース」に執着していました。今でも執着があります。何の考えもなく多数派に流される(ように見える)人々を低く評価しようとするのがその証拠。この条件にそれなりの価値を見い出すからこそ、威嚇するのです。
そして生まれる「“しあわせの条件”をクリアできない自分は欠陥人間」という考え方。しあわせを求めた結果、不幸になってしまうなんて。
多数派でいることは楽だし、みんなが良いと言うものを目指すのは悪いことではありません。素晴らしいものであるからこそ、多くの人に好まれ愛されているとも言えます。でも、それが叶わなかったとき、路頭に迷ってしまいます。自分で考えた答えではないので、誰かのせいにしたくなります。
そういう自分に気づいたとき、無自覚に多数派に流されるのは危険だと痛感します。それに気づいてよかったなと思うのがせめてもの慰めです。
誰かの答えではなく、考えに考えた末の答えを選べば、多数派の意見に怯えることは少なくなるでしょう。根本的な確信を持っていれば、人の意見も素直に受け入れられるようになりますし、グラグラ揺れる心も少しは落ち着きます。
「多数派・少数派」より「多様性」を意識して生きたいものです。「好きにすれば」「どうでもいいな(どれも良いな)」というスタンスで。
みんなも「何でもOK(多様性を認めよう)」という意識でいてほしいです。そしたら私が楽だから。
私は、めんどいのもしんどいのも嫌です。自分の考えが絶対と信じる人に個人的な意見を押しつけられるのも嫌です。
「あなたは今しあわせですか?」という質問に素直に答えられないのは、そこに潜んでいる世間一般の価値観に押さえつけられることを恐れているからです。
まさに多数派のいうしあわせな人生を歩めずに苦しんでいて、
検索でこのブログに辿り着きました。
素敵な記事をどうもありがとう。少し救われました。
ナミさんこんにちは。
以前にもよらせて頂いたハナです。
私も多数派の幸せな人生を歩めずに歳を重ねてしまい、
不安と孤独でいっぱいです。
自分を責めたり、周りを羨んだり、過去を悔いたり…
とても疲れます…
ナミさんのブログにはいつも励まされます。
ありがとうございます。