「人生にはつらいことがつきものだ」と訳知り顔で言う人がいます。
悩みを抱える子供や10代の若者に「社会に出たらもっと大変だ」「人生の辛苦も味わったことないくせに」と言う大人もいます。
そういう言い方が私は気に入りません。
なぜならそれは、痛みを抱える人の気持ちを無視して、自分の考えを主張しているだけだから。
「大人になったらもっと辛く苦しいことがある」って、たとえ若者が人生の辛苦を味わったことがないように見えたとしても、あなたが知らないところで人生最大の辛苦を味わっているかもしれませんよ、と言いたくなることがよくあります。
必ずつらいことがあるという前提は正しいのか?
私も子供の頃、こういう類の言葉を多く受け取りました。
「人生、つらいことを避けては通れない」
「これからもっと苦しいことがたくさんある」
「そんなことで落ち込んでちゃいけないよ」
それを聞いて「人生は苦悩の連続なのだ」と思いました。
今こんなにしんどいのに、社会に出たら、もっとつらいことが待っているのか……。
暗澹たる気持ちになりました。
希望をまったく持てませんでした。
どんなに楽しいことを経験しても、「でも、必ずつらいことがあるのだ」という思いが常にチラつきました。
しかしながら、「もっと苦しいことがある」という予言は的中しませんでした。
きっとこれからも的中しないと思います。
なぜなら、あのときのつらさは、他と比較できない大きな痛みだったから。
手持ちの武器や経験が少ない中で乗り越えなければならない壁、窮屈な世界で解決しなければならない問題、そんな困難から生まれるつらさが今後訪れることはないでしょう。
一応、私なりに成長していますからね。経験値も増えているし、使える道具もちょっとはパワーアップしています。
でも、それに気づくまでは、ことあるごとに、腹を立てていました。
「あのときつらさ、ずっとランキング上位なんだけど?」
それほどの痛みを軽んじられたことが悲しかったし、ムカつきました。
大人になるまで彼らの発言のいい加減さに気づけなかった自分も情けないと思いました。
子供を見下す大人の正体
経済的に自立していないというだけで子供を見下す人がいます。
そうやって経験が少ない人と比べなければ自分を保てないのか、と言いたくなります。
もちろん私だって「何も知らないくせに」と言いたくなることはあります。
そう言いたくなるのは、自分がねぎらってほしいときです。
頑張ってるね、えらいねって褒めてもらいたいとき。
要するに、子供に嫉妬しているのです。
あるいは、同じ土俵に立って必死に張り合っているのです。「私の方がすごいんだぞ!」って。
だから、できないことや経験が足りないことを指摘したくなる気持ちが少しはわかります。
でも、わざわざ呪いをかける必要はありません。
たとえ誰もが通る道だったとしても「こんなにつらいことが待っているから覚悟しとけよ」と脅す必要はないのです。
と、私の心の中にいる子供が言ってるよ。
呪いの言葉に怯える過去の自分に強いて言うなら
私は自分の人生がとてつもなく素晴らしいとは思っていませんが、自分の人生が最高だと思います。
だって自分の人生しか知らないから。
他人の人生を知らないので、比べようがありません。
ただ、他者を観察していてわかるのは、他の人の人生が自分の人生と同じようにつらかったり楽しかったりするわけではないということ。発生するイベントは同じではないし、似たようなイベントでも、自分とは180度違う感想を持つ人がたくさんいるみたいです。そもそも初期設定だって違います。
「社会に出たらもっと大変だ」とか「人生の辛苦も味わったことないくせに」とかいう類の言葉って、人に押しつけるものではなくて、自分を励ますために言うものなんじゃないかなと思います。
だから、呪いの言葉に押しつぶされそうになっていた過去の自分に言いたい。
人生は苦悩の連続じゃない。楽しいこと、面白いこともたくさんあるよ。
この言葉を受け取った私が将来「しょうもない人生じゃねえか」と腹を立てる可能性も大いにありますが、「つらさばかりが人生だ」と思ってビクビクしながら生きるよりは断然ましです。
人生は素晴らしい。
私の人生は最高です。
いろいろな意味で。
「いい加減なことを言って、相手の気持ちを無視するような発言をする人がいる」という冒頭部分に全力で頷きつつ、「人生は素晴らしい」といえる末尾部分に人柄の奥深さを感じました。
嫉妬故に、相手を脅すようなことを言う、というのは考えたことがありませんでした。参考にさせていただきます。