うぬぼれた己に送る、自分の立ち位置を確認するための言葉

カエルの王様

「井の中の蛙大海を知らず」って小さなカエルが大海を知る必要あるのか

こんなメモ書きを見つけました。

なぜ私はこんなことを書いたのでしょうか?

おそらく「井の中の蛙大海を知らず」と言った人の偉そうな態度が気にくわなかったのだと思います。たとえそれが自分に向けられたものでなくても嫌な感じ。だから、何か反論したくなったのでしょう。

「井の中の蛙大海を知らず」とは、狭い見識にとらわれて、他に広い世界があることを知らずにいること(明鏡国語辞典より)。自分の限られた知識だけで判断してしまう浅はかさのたとえとして使われます。

いますよね、こういう人。ちょっと経験したってだけで、自分は何でも知ってるみたいな顔して偉そうにしてる人とか、小さなコミュニティの中でスター気取って鼻息荒くしてる人とか。そういう人に対して「井の中の蛙大海を知らず」と言いたくなることはあります。

多分そう思ったときの私は、上から目線で、偉そうな態度になっているはずです。

でも、狭い見識にとらわれてしまうことは私だってしょっちゅうあるし、何となく全体を知った気になって語ってしまうこともあります。だから、「えっらそうに」と人のことを文句言えるような立場にはありません。私だって十分偉そうだ、自分が生きる世界しか知らないくせに。ばーかばーか。

と、一通り自分を罵ってから改めて考えてみると、それって当たり前ですよね。自分が知らないことは知りようがない。生きている世界が狭いとか、見識が狭いとか言われても、わからないよ。

もし地球外の宇宙に住む生命体が(いるとして)「井の中の蛙」と同じようなたとえをつくったら、「地球にひっついている人間」とかになるかもしれないですよね。

地球にひっついている人間、大宇宙を知らず。

いや、そりゃそうだよ。宇宙飛行士でもない一般人が地上から遠く離れた宇宙空間を知りようがない。今は情報社会でたくさんのことを知れるし、何でも知った気になっちゃうけど、誰も何も教えてくれなかったら、宇宙と定義された空間があることさえ知らないよ。それに、いま解明されていることだってまだまだだって研究者の人たちは思ってるんでしょ?

こうやって考えると、「井の中の蛙大海を知らず」って、現状を理解するために、自分で自分に言う言葉なのかなーという気がします。

本日の学び:井の中の蛙を笑う蛙もまた井の中に

自分が世界だと思っている世界がすべてではない。

自分が知っているのは全体のごくごく一部。

その一部を知っただけで、すべてを知った気になってはいけない。

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「井の中の蛙大海を知らず」と言うより、こうやってまとめた方が、モヤモヤもしないし、「そうだな」と納得できます。

なぜ私は「井の中の蛙大海を知らず」が嫌な感じだと思ったのか?

考えられる理由は二つ。

一つは、「自分がいる小さな世界を知っただけで、すべてを知った気になっているヤーツ」と嘲笑している感じがするから。

もう一つは、「オマエは知らないが、オレは知っている。つまり、オマエは劣っているが、オレは優れている」とわざわざ言う感じが不快だから。

笑われるのは嫌だし、劣っているとバカにされるのも嫌。言葉が嫌というより、言い方や態度が気にくわないってことですかね。そういう人の顔は醜いぞと。

まぁどんな言葉であれ、自分の価値観を押しつけて、人のことをああだこうだ言う人が好きじゃないみたいですね、私は。

だから、そういう人にならないよう、「自分が知らない」ということだけはしっかり自覚しておきたいなと思います。

 
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