「はぁぁぁ~、しまったぁ~~~」
今にも泣き出しそうな声でした。
何やら取り返しがつかないことをしてしまった様子。
まるで事故で片腕を失ってしまったのかと思うほどの悲愴感です。
その嘆きを聞いたとき、私はひどくうろたえました。
私までもがとんでもない失敗を犯してしまったような気がして。
どうしよう、もうダメかもしれない……。
が、どうしたのかと尋ねれば、そんなにも悲愴な声をあげるほどのことではない。
40部コピーした書類の日付が間違っていたことに気づいた、とのことでした。
えぇぇ……。
いや、確かに、ムダにしてしまったものや今後の追加作業を思えば、「はぁぁ~やっちまった~」と言いたくなる気持ちはわかる。自分の不注意やバカさ加減を呪いたくもなることもあるよね。
でも、そんな悲しみに満ちた痛ましい声を出すことではない。
気持ちはわかるけど、そんな声で不安にさせないでよ~、心臓に悪いわ~、せめてその最愛の人を失ったみたいなニュアンスやめて~、というのが率直な感想です。
そして、セリフ一つで、こんなにも悲劇を演出できるのだなと感心しました。
同時に、私もかつてはよくこんな悲劇を演じていたよなと思い出し、なるほどなるほどと一人頷いたのでした。
ささいな、けれども自分にとってはこの上ない悲劇。
思い出されるのは、高校生の頃のこと。お気に入りのスケジュール帳が、雨に濡れて、びろびろふにゃふにゃになってしまったことがありました。
私はこのとき号泣しました。文字通り、声をあげて泣きました。
なぜそんなことで泣いたのか?
まず、ただでさえ疲弊していたところに、突然の大雨に見舞われました。土砂降りです。強風で傘もさせない。自転車で急な坂道をえっこらえっこら上りながら、全身びしょ濡れ、カバンもびしょ濡れ。お迎えの車がやってくる。しかし、私を迎えにきてくれる人はいない。雨はやみそうにない。雨宿りする場所もない。雨に打たれる。
そんな状況で、何とか帰宅し、カバンの中身を取り出したら、愛用していたスケジュール帳の濡れた部分が波打ってふにゃふにゃ。
この瞬間、とどめを刺された感じだったんですよね。
「堰を切ったように」という形容がふさわしい泣き始めでした。
自分でも「なんであんなにバカみたいに泣いたんだろう?」と思いましたが、消沈気味のコンディションであったことに加えて、あまりにも悲しみの演出が揃いすぎていましたね。打ちのめされるとはまさにこのこと。物理的な演出は効果てきめんです。
「嫌なことばっかり」「自分はなんてかわいそうなんだ」と思いながら泣いたら、ますます悲しみがぶわっと押し寄せて、涙が止まらなくなりました。
そんな演出効果を実感した思い出です。
自分の人生の演出家は自分、とか何とかって誰かが言っていたような。
できることなら、心地よく過ごせる演出をしていきたいものです。
少なくとも、不幸や悲しみを必要以上に増長する演出は控えたいですね。
演出家の人が書いた本でも読んでみようかな……。
例えばこんな。
「いい子を演じるのに疲れた」の背景 ― 平田オリザ『わかりあえないことから』感想
書評や本屋さんでおすすめされているのをよく見かけます。
<おまけ>
幸せを演出するにはこれですね、やはり。
思わず「疲れた」と検索してしまうほどに疲れたときは猫画像を見ましょう
にゃーん。
高校生の頃のお話、私も似たようなことがあり、思わず、「わかる~!」と声に出してしまいました(笑)
私も、大切にしていた定期入れを、カイロと一緒に入れていたら、、
ビニール製の定期入れだった為、熱でベロンベロンに(^_^;)
そして、まれにみる大雪で、停まる電車、いつもは持ち歩かないのに、たまたまポッケに入れていたカイロ。。
泣きました。
色んな情景が重なって。
「自分の人生の演出家は自分」
本当に、自分自身を悲しみではなくて、のんびり、ゆるゆる、明かる過ぎず、暗すぎず、自分らしい演出をしたいものです。
更新ありがとうございます。
あくまでも私個人的な考えなのですが、
厚顔無恥も少しは、必要かと。