前回、phaさんの『がんばらない練習』を読んで、「がんばれない話は癒やしになるんだなぁ」と書きました。
がんばれない(がんばらない)話が癒やしになるのは、できなくても大丈夫と思わせてくれるから。失敗したときに「そういうこともあるさ」と声をかけてくれる、そんな優しさを感じて、安心できます。
「できない奴は価値がない人間だ」と罵る仮想の他人が自分の中にいると、打ちのめされてしまいます。自分を責めて無気力状態になることもあります。自分なんかいない方がいいんだと思って死んじゃったり。
そんな状況で、積極的に行動を起こすのは難しい。
だからこそ、癒やしと勇気づけが大事。「できなくても大丈夫」というメッセージが力を授けてくれます。
自責の念を弱めることで、心は回復します。自分のペースで頑張ろう、コツコツやっていこう、と思えたのならば、それは素晴らしい。みんな自分の力を発揮したいんだよね、自分が望む形で。そうじゃない人もいるかもしれないけれど。
傷ついた心を癒したい。
もう傷つきたくない。
大丈夫だよって言ってもらいたい。
大丈夫って思える強さを持ちたい。
そんな人が少なくないから、「できなくても大丈夫」「できないことを責められても気にしなくていい」と教えてくれるメッセージが重宝されるのでしょう。『がんばらない練習』は、そんな人のための本なのだなぁと改めてその効果の高さを認識しました。
がんばらない話を求めるのと同様に、できない話を求めてしまうことも多いですよね。
自分が劣等感を持っているフィールドにおいて、できる人の話は面白くありません。自分の至らなさを思い知らされ、落ち込んでしまうから。
例えば、喉が渇いているときに、目の前でゴクゴク水を飲まれたら辛い。その人は何も悪くなくても憎んでしまいます。
それと同じように、「できる話」を聞かされても嬉しくない。その話を聞いたって、自分が欲しいものが与えられるわけじゃない。渇きがもっとひどくなるばかりなんだよ、と。
対して「できない話」。自分と同じように満たされない人の話は、憎くありません。仲間だと感じます。同士がいるとわかって安心します。自分だけじゃない、頑張ろう、と励みになることもあります。
また、自分がそれなりに満たされているときにも、できない話は重宝します。現状が物足りないと感じたときに、自分より満たされない人の存在を知ることで、自分はましだと思える。自分は大丈夫、そこまでダメじゃない。人は安心したいのです。
だけど、これってどうなんだろう。人と比べて現状の良し悪しを確認するのって。
それは別に悪くないし、自分の立ち位置を知るために比較対象が必要なことはあります。けれど、それじゃ心許ない。
だから、もっと自分の軸というか核のようなものを持ちたいよねと思います。
どうやってそれを獲得すればいいのか。
やはりいろいろな経験を積むことでしょうか。「まずは試してみよう」。そうして、自分の「いい感じ」と「やな感じ」を知ることで、ジャッジできるようになるのかな。
できないことをできないと言える強さを持ちたいものです。
それは、自分にとって大事なものは何か知っている人が持てる強さなんじゃないかと思います。
他人の言葉ぐらいじゃ揺らがないもの。
まずはそれを見つけたいですね。
簡単には見つからないからこそ、探し甲斐があるのでしょう。
【すぐに他人と比べてしまう……】
「私は何てダメなんだ」落ち込みの理由とつらさを和らげる考え方