最近、オザケンこと小沢健二さんの19thシングル「流動体について」をヘビロテしています。
オザケンは歌詞がいいですよね~。この曲もかなりのお気に入りです。
で、「流動体について」がいい感じに体になじんできたある日。ふとしたきっかけで、さまざまなエピソードが一つにつながりました。
「なるほど~」と納得して、晴れやかな気持ちになったので、今日はそれについて書きます。
オザケンの他に、西田幾多郎、シンセサイザー奏者の喜多郎、池谷裕二教授、パオロ・マッツァリーノ、シッタカブッタが登場します。
オザケン×キタロウのコラボレーション
図書館で書架をぼんやり眺めていたら、『世界名言集』の赤い背表紙が目にとまりました。
ちょっと気になって、適当にパッと開いてみました。最初に目についたものが「今日の私の言葉」。そんな気楽な占いのつもりで。
飛び込んできたのは、この言葉。
善とは一言にていえば人格の実現である
西田幾多郎『善の研究』202
へぇ~。
と、ぼんやり咀嚼していたら、オザケンの歌を思い出しました。
神の手の中にあるのなら
その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらい
このフレーズが頭の中に流れて、確かにこれって「人格の実現」を目指すものなのかなーとわかったつもりになったのでした。
その後、西田幾多郎の連想から、シンセサイザー奏者の喜多郎が出現し、オザケンと喜多郎と幾多郎のコラボレーションが始まりました。
シンセサイザーで壮大な音楽を奏でる喜多郎さんの周りには、哲学者・西田幾多郎がくり出す難解すぎる単語が浮遊していて、その横では渋谷系王子様のオザケンがギターをジャカジャカ鳴らしながら、体と楽器を左右に揺らしている図。
この混線したイメージは、「善とは一言にていえば人格の実現である」という言葉に対する、私の理解できてなさ加減をうまく表していると思います。
ヒトは生まれながらにして「善」なのか?
脳研究者・池谷裕二さんの本に、善悪に関する研究が紹介されていました。ハーバード大学のランド博士らの論文です(『脳はなにげに不公平 パテカトルの万能薬』pp.181-183)。
行われた実験は、ボランティアとして集められた人が、手渡されたお金をどれほど寄付するか? というもの。
実験の結果、寄付金の額を決定するまでの時間が早い人のほうが寄付率は高く、じっくり考えるタイプは自分の利益を優先する傾向が強いことがわかりました。
さらに、判断の遅い人に「迅速に判断してください」と促すと、寄付率が高まることもわかりました。
つまり、瞬時に決定すると、他人に利益を与える行動が増える、ということ。
この結果から言えるのは、
- 人は生まれながらにして「善」であることがうかがえる
- 「悪」は、直感的な結論を一歩踏み留まって「考える」ことから生まれるとも言える
と池谷さんは書いています。
これを読んで私は嬉しくなりました。
「宇宙の中で良いことを決意する」のは重要だと思ったけれど、そうじゃなくても、人には直感的に「良いこと」を選ぼうとする傾向があるんだ。
むしろ、あれこれ考えていると頭でっかちになって、自分のことばかり考えてしまうから、もっと軽やかに歌でも口ずさみながら、ポンポンッと判断していけばいいのかな。
そんなふうに思って。
私は偽善者です
私は、偽善者だと言われることがあります。
そういう言葉を聞いて、私自身「そうだね」と納得することが多いです。
一時期は、偽善とは何なのか、必死に考えていたこともありました。私が選んだ「良いこと」はニセモノなのかと考えたら、やりきれなくて。
だけど、ニセモノかどうかなんて、一人間が判断できることじゃないと思うに至りました。
だって、私たちには「良いことを決意するくらい」しかできないんだから。
さっきからオザケンの言葉を借りてばかりですけど。借りたついでにサビの部分をもう一度。
神の手の中にあるのなら
その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらい
その決意した「良いこと」さえ、本当によいことなのかわからない。
ただ、よい存在であろうとすることは、よいことと言えるだろうから、できる限りそうありたいよねって。
パオロ・マッツァリーノさんは、24時間テレビを例に挙げて、こう言っていました。
あの番組のやってることが偽善だとしても、私はなにも被害を受けてないし、少なくともだれかの役には立ってるんでしょ。
だったら、それでいいじゃないですか。愛は地球を救えないかもしれないが、偽善はだれかを救ってます。(『偽善のすすめ 10代からの倫理学講座』p.206)
「そうだね」と思いました。
偽善は誰かを救っている。それで十分。
人類全員を、全員が納得できる形で救うことはできないのだから。
自分にとって大切なこととは?
こうしてさまざまな言葉や音楽を通して「なるほどな」と思ったとき、ある作品を思い出しました
『ブッタとシッタカブッタ』の4コママンガです。
読書
本を読んで感動した時たいせつなのは
誰が書いたのかということより自分が読んで感動したということである
感動とはそこに書かれていることで見つけた自分の心である
読書とは著者との対話でなく本を通しての自分の心との対話である
(『ブッタとシッタカブッタ3 なぁんでもないよ』改行は省略)
特にオザケンの歌を聴いたとき、このことを強く感じました。
「流動体について」は19年ぶりのシングルということで、オザケン個人の今の想いを綴った詩と解釈することもできそうですが、これを聴いたときの私は完全に自分のこととして、この歌を聴きました。
まさに自分の心と対話していたんですよね。
オザケンの歌は、情景描写と抽象度が絶妙だから、自分との対話にぴったりです。
深みを感じさせるような構成でありながらも、軽妙なメロディのおかげで、重くならずベタつかない。例えるなら、つけ心地の良いさっぱり化粧水をパシャパシャつけたときのような爽やかさ……ってこれは「ぼくらが旅に出る理由」のPVからの連想かも。
こういう、いつもとは違う気持ちを感じられるから、本を読んだり、音楽を聴いたり、マンガを読んだりするのは楽しい。これこそが作品を鑑賞する醍醐味なんだなと思います。
映画も心を震わせるのには最適ですよね。
「あなたはよい存在だよ」と伝えることはよいことですか?
善とは人格の実現。
うまく説明できないけれど、よい存在であろうとすること、よい選択をしようと決意すること、これはよいこと。
ただ、誰かにとっては、その「よい」が迷惑になることもあるから、押しつけにならないように注意しないといけません。
誰も救わない善意・善行は、善ではないから。
よいことを決意することと同じくらい、結果に注目して軌道修正することも大事。
完璧にはできないけれど、そうやって試行錯誤する姿勢が大事。
「どうせ完璧にできないんだからムダ」って最初から放棄しちゃいけないよねって。
で、結局「よい」って何なのか、わからないままなのですけれど。
とりあえず、このブログに遊びに来てくれた人が、一瞬でも緊張した心をゆるめてくれたのなら、私は「よかったな」と思います。
だから、私に「よかったな」と思わせてくれるあなたは、よい存在。
よかったね。
ありがとね。
<本日の作品>
岩波文庫編集部編 (2002)『世界名言集』
小沢健二 (2017)「流動体について」
池谷裕二 (2016)『脳はなにげに不公平 パテカトルの万脳薬』朝日新聞出版
パオロ・マッツァリーノ (2014)『偽善のすすめ: 10代からの倫理学講座 (14歳の世渡り術)』河出書房新社
小泉吉宏 (2003)『ブッタとシッタカブッタ3 なぁんでもないよ』KADOKAWA/メディアファクトリー
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文章の粗さが目立ちますが、このときから基本的な姿勢は変わっていません。
あー、よく生きたいもんですなぁ……。
私は26年間、鬱を繰り返しています。情けないですが、毎回怒濤に迷い、どうやってやり過ごしたらいいか分からなくなり、死を願い、ただ横たえるだけ…2年前にナミさんのブログに出会い、どれほど支えられたか分かりません。ナミさん、本当に本当にブログを書いてくれてありがとうございます。