「これ、よかったら使って」と差し出された善意。でも、正直いらない。そんなとき、あなたは「ありがとう、でもいらない」と言えますか。
私は多分うまく言えません。せっかく相手がよかれと思って言ってくれているのに、面と向かって拒否するのは悪い気がして。
反対の立場になることもあります。自分が「これ、よかったら使って」と差し出す。もちろん100%善意のつもりで。そのとき、相手はどんな顔をしていただろう。果たして私は相手のことをちゃんと見ていたのだろうか。
前回感想を書いた映画『僕らの世界が交わるまで』を観たときに、そんなことを思いました。
目の前の相手がどんな考えを持ち、どんな気持ちでいるのか。それを理解しようとせず、自分の思いを必死に伝える姿。それが作中で描かれていました。
もうね、人事には思えなかったんですよね。
なぜそうなってしまったのか。
私の場合は、言葉にすがりすぎていたことが大きいと思います。まるで相手の言葉を一語一句ノートに書き取る勢いで聞いていました。「はい、確かにあなたはこう言いましたね!」と。今思うと、空恐ろしい。いや、真面目だったとフォローすることはできるかもしれません。あるいは、言葉をとても大切なものだと思っていたんだよね、とか。
そんなわけなので、言っていることとやっていることが違う人を前にすると、不快感が抑えられなかったんですよね。相手の行間を読む余裕もなかったので、「あなたが自分でそう言ったんじゃないか!」と怒っていました。内心で正論の剣を振り回していた。ああ、なんて危ないんだ。
今ならわかります。「言葉が大事」なのではありません。ちょっとした間の取り方、声のトーン、何気ない仕草。そこに本音が垣間見える。まあこうやって改めて書いてみると、これらを読み取るなんて、難しいこと言ってるなとも思うんですけれど。
言葉は便利だけど、あくまで、ざっくりした翻訳みたいなものなんですよね。形にできないものを仮初めに置き換えたもの。時に出力結果が間違ってしまうこともある。あえて別の出力結果を示すこともある。だから、そのまま鵜呑みにしちゃダメ。「この人、どんな気持ちでそう言ったんだろう?」と想像する必要がある。
この「言葉にできないもの」「とりあえずの置き換え方」が似ている者同士が「馬が合う」ということになるんですかね。使う道具(言葉)や出力のクセが似ている? 「波長が合う」というのが近いでしょうか。
これだけたくさんの人がいたら、同じじゃなくて当たり前。ということはわかるのですが、いざ人と対面すると、そんなことを考える余裕はなくなってしまったりもするし、難しいですよね。
でも、「どういう気持ちで言ったんだろう?」という問いを一つ挟む、これだけで、人はちょっと優しくなれるんじゃないか。正解は導き出せなくても、ほんの少しくらいは変わるんじゃないか。
憎悪加速装置ことSNSを眺めていても、そんなことを思います。
「言葉だけ」ではなく、その人がまとう気配を感じられるようになったらいいのかもしれません。
それは、匂いとか香りとか、味わいに似たものなのかなと今ふと思いました。
ってことは、食レポの練習をしたら、感度が上がるかも?
いや、冗談抜きに、腹を満たせば、人に優しくなれそうな気もするので、とりあえずおいしい物を食べましょう。そして、しっかり眠ることも大事ですね。いつだって生活の基本が大事だといういつもの結論にたどり着きました。
