寂しさについて考える

「私は寂しい」と認めるのって難しいと思いませんか。

なぜなら「私は寂しい」と思うとほんとに寂しくなっちゃうから。

人は、自分を守るために「否認」や「抑圧」を使うらしいです。前に何かの本で読みました。わかる。認めなければ痛みをないことにできますもんね。自分の弱さや情けなさと向き合わずにすむ。

私は自分が寂しいと感じているのかよくわかりません。過去に強烈な寂しさを感じたことはあったけど、ここ最近はない……いや、寂しさは感じます。ても、ネガティブなものとは捉えていない。一人でいることが好きだし、賑やかじゃないほうが安心する。

あれ? 寂しさってなんだろう。

喪失による寂しさと、望むものが得られない寂しさは違います。喪失による寂しさは痛みや悲しみが伴うけど、後者は渇望感とか焦燥感とか、ギリギリとせり上がってくるものがある気がします。

前に自分が感じたのは、胸の下あたりがスースーする感じ。隙間風が吹きすさぶ。あれは一体何だったのか。あれは寂しさだったと思う。けど、あれ以来、強烈な寂しさって感じていない気がします。それは否認?抑圧? 

私は寂しいんだろうか。喪失の痛みや悲しみを二度と感じたくないという気持ちは強いと思います。だから、それと天秤にかけて捉えているのかもしれない。喪失による痛み・悲しみに襲われるしんどさに比べたら、寂しさなんて屁みたいなものだと。いや、でも、それだけでは説明できないんだよなぁ。何かが違う。

時代や文化によって寂しさの感覚も変わるのかな。今は個人主義が進んでいる感じで、一人でいることを許される雰囲気があるけど、昔はそうじゃなかった。「村八分」という言葉もあるくらいだし。ひとりぼっちでいたら、生きていくのが大変だったんだろうな。物理的に生存が危ぶまれたら、そりゃ寂しい状態を回避したくなりますよね。でも、それって寂しさなのかな?

ここで私が言いたかった寂しさには、哀愁とか悲哀みたいなものが滲んでいると思います。ギリギリとせり上がってくるようなものではなく、ある程度の生存は保証された状態で生じる感情。だから昔私が感じた強烈な寂しさは、生存が危ぶまれるような状態だからこそ生じた何かだったのかもしれない。物理的な困難ではなく、精神的な困難。危機。でも、そしたらそれってもはや寂しさではないよな……。

自分の気持ちの配合として、寂しさ成分多めってことだったのかもしれないですね。そう、感情っていろんなものが入り混じっていますものね、一色で表せるものじゃない。のぺーっとしたものじゃない。入り混じっているんだ。そう考えると、「寂しさとは」という問いは、実用的なものではなさそうかも。もっと他に適切な問いがあるのでしょう。探しましょう。

で、なんでこんなことを考えたかというと、マンガ『氷の城壁』で、登場人物の一人が寂しさについて内省するシーンがあったからです。

(私はタテヨミで読みましたがね、横読み版も気になります)

阿賀沢紅茶さんのマンガ大大大好き。めっっっちゃ面白い。最高です。

あ、今気づきました。寂しさを考える上で重要なキーワードは「心細さ」では。心細い状態は回避したい。あれ、じゃあここまで書いてきたことって何だったの。まあいいや、また今度考えます。

 

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