油断すると自分のことばかり考えてしまいます。いや、油断しなくても自分のことばかり考えています。
私はダメだ、私は何もできない、何の取り柄もない能なし、などなどなど。
よくもまあ飽きもせず同じことばかり言えるものだとある意味感心いたします。
前に、最近はあまり自分のことをダメだと思わなくなったという話を書いたのですが(参考:ダメだと自分を責めるのは、自分を見捨てていないから)、抑うつ症状が強まってくると、わけもなく自己否定的・自己破壊的な言葉が発生して、ぶわーっと噴き出してしまうのですよね。自分みたいな存在が在り続けていることが許せない。そんな感情が発生している気がします。破滅への衝動? 要するに希死念慮がいろいろと形を変えながら現れているということなのでしょうかね。
否定の言葉にまみれて過ごすのはよくないので、もっと他のことを考えようと思うのですが、なかなかうまくいきません。
例えば、周囲に目を向けると、他者が目に入ります。楽しそうな人を見れば嫉妬するし、つらそうな人を見れば胸が痛んで後ろめたい。
やっぱり自分に引きつけてあれこれ思っちゃう。何を見ても私・私・私。なんだかんだ言って自分大好きなんじゃないと言いたくなります。
そうやって客観的に見るフリをしても、頭の中はぐちゃぐちゃで、形而上と形而下をつなぐはしごを昇ったり降りたり、自分でも何をやっているのがよくわからない。肯定するにせよ否定するにせよ、もっと他のことに目を向けた方がいいと思います。
もっと他のことに目を向ける。その答えとして最適なのは、物作り。滅入ったときは、熱中できる手作業をするのが一番です。
『20 センチュリー・ウーマン』という映画に、陶芸をたしなむ男性が登場します。家屋や自動車の修理が得意なヒッピー崩れのおっさんです。映画の感想メモには「物作りに没頭する人は信頼できる」と書いてありました。大工さんとか整備士さんとかいいよねって憧れに似た何かが自分の中にあります。発生源は不明ながら、圧倒的な信頼感です。
粘土をこねこねする姿、なんかいいよね。こねるのは楽しい。私も小麦をこねるのが好きです。こねこねしている時間は無心になれます。この心地よさを知ると、定年後に蕎麦打ちに目覚める人の気持ちがわかるような気がします。
粉や土に水を加えて練ろう。粘りけのある塊をこねよう。
その工程を想像するだけでも、不快感が軽減されます。
困ったときは、こねましょう。
そういえば、いつか食べた手こね寿司、おいしかったなぁ。