小林秀雄の言う「考える」について考える

あぁだるいなぁと言いながら、ごろんと寝転んで、その辺にほっぽり出されていた本を読み始めたら、ハテナがいっぱい浮かんで、ますます頭がぼやぼやしました。

考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。(『考えるヒント2』p.71)

物と親身に交わるってどういうこと? 物を身に感じて生きるとは? 

「考える」は、「思考する」とか「思索する」ってことだよなぁ、他にも意味はいっぱいあるし、んんんー、よくわかんねー(大あくび)となったので、一眠りしてからちょっと考えてみることにしました。

「考える」の定義が思ってたのと違った

まず、私の中で、「考える」は、「感じる」や「思う」と重なる部分はあるものの、別物として捉えていました。

ざっくり言うと、言葉や論理と格闘するのが「考える」、心のままに浮遊するのが「感じる」、そのあいだが「思う」、ぐらいの感じです。

だから、物と親身に交わる経験、物を身に感じて生きる経験が考えることだと言われても「?」が浮かんだんですよね、それって「感じる」とか「思う」じゃないの? と。

「考える」と「感じる」の違い

まだ頭の中がぐちゃぐちゃなので、まず、私の中にある「考える」と「感じる」の違いを整理してみます(「思う」はとりあえず脇に置きます)。

  • 「考える」は論理を必要とするが、「感じる」は論理を必要としない
  • 「考える」には目的がある(結論・意見・予測などを得るために頭の中で対象をこねこねする)が、「感じる」にはそれがない
  • 「考える」はイメージや言葉を使いながら対象を理解しようとすること、「感じる」は物理法則の働かないところで心の有り様を知覚すること

身近なもので例えるなら、

  • 「考える」は材料を集めて料理すること、「感じる」は材料そのもの

といったあたりでしょうか。

「反応」や「処理」は「考える」ではない

私の中では、つかめないが存在している何かを何となく察知するのが「感じる」で、その雲のようなものをつかめるようにしようとすることが「考える」です。

それで、つかめないものをつかめるものに仕立て上げた結果、それは全然別物になってしまいました、ということも多く、感情(など漠然とした何か)を言葉に置き換えたり名前をつけたりするのはナンセンスだろーという言い分もあるのですが、いやでもそれじゃ収集がつかなくなるから、とりあえず仮にラベルつけてみましょう、そういう記号があると物事を扱いやすくなるし、何よりわかりやすい、早く処理できるようになれば、効率よく物事を進めることができて、結果、多くの人が心地よく過ごせるようになるでしょう。と、効率よく進めることを求めた結果、それはただの「反応」と「処理」になってしまいましたとさ。

そんな状況を見て「それは『考える』ってことじゃねぇぞ」と小林秀雄先生が言っていると理解したのですが……なんかまだ足りない気もする。

問題解決、例えば算数ドリルの問題を解く頭の使い方は、反応や処理に近い。「この言葉ってどういう意味だろう?」と疑問が浮かんだときに、辞書を引いてノートに書き写す行為も、反応して処理しているだけ。わかりやすい言葉で整えて提示することも「考える」というより「処理」に近いと感じることがあります。「やばい」「ぴえん」などと口にする状態は「条件反射」と言ってもいいくらいです。いやもちろんその過程でちゃんと考えている人もいるとは思うんですけど、私は大抵頭を使っていない。

あー、何だかよくわからなくなってきました。

「考える」は「感じる」を含んだもの

「考える」は、物事をただの記号として機械的に扱うことではありません。

もう一度冒頭の引用箇所を読み返してみると、

「物に対する単に知的な働きではなく」
「物を外から知るのではなく」

そう書いてある、そうだそうだ、「感じる」がない「考える」はただの処理。ベルトコンベアに載せられて流れてきた海産物をさばいているだけ(流れてくるのは精密機器でも食品でも日用品でも何でもいいのですが、なぜか私の頭ではイカを捌いて内臓を取り出す様子が再生されました。ちなみに本題からはそれますが、この工程は非常に尊いと思っています)。

というわけで、とりあえず、ただの「反応」や「処理」を「考える」と呼ぶのはやめようと思いました。

そして「考える」と「感じる」を別物として捉えることもやめます。「考える」は「感じる」を含んだものです。

あとは、物と親身に交わり、物を身に感じて生きることも、できるように、なるかなぁ……。
 

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