人のことを可哀想がるのって、それ結局相手を見下してるだけでしょ、と思うことがあります。そう感じさせる言葉があります。「かわいそう」という言葉に優しさが感じられないときです。まるで「ばかだなぁ」と言っているように感じるときです。
相手にはそれなりの事情があって、自分がそれを知らないだけ、想像が足りないだけかもしれない。もちろんそんな擁護は不要な、貶めて当然の愚かなことかもしれない。中身を知らなければそれはわからない。
けれども、私は人を軽んじない人の言動に感動したのでした。自分とは違う人の立場で考えて「つらいだろうなあ」と何気なくつぶやいた、その思いやりに心を動かされたのです。あの人なら何と言うでしょうか。きっと、どんなときでも「かわいそう」とは言わない気がします。違いは一体なに? 具体的に何ができるか考えているところ?
「かわいそうだなぁ」は客観的な立場で発した言葉。「つらいだろうなぁ」は主観的に見ようと努力した結果出た言葉。主語が違います。「Aさんは」と「(仮に私がAさんの立場だとしたら)私は」。「かわいそう」は他人事で、「つらいだろうなぁ」は当事者に近いと捉えられるでしょうか。環境や生い立ちも含めて、その人を構成する要素、影響される事柄すべてに目を配って考える。そうすれば、「かわいそう(=ばかだなぁ)」という言葉は出てきません。
「かわいそう」が「ばかだなぁ」と同じ意味になっているとき、私は嫌だなと感じます。カモフラージュする仕草にモヤッとするんだと思います。自分は人を貶める人間ではありませんよ、思いやることができるんですよ、と取り繕うための言い換えをしてるよ、この人……と。
これ、自分もたくさんやってしまっていると思います。「残念な人だ」と下に見ることで腹立たしい気持ちを抑えてきた過去があります(それはこのブログにも)。今は……ちょっとは想像を働かせられるようになっていればいいのですが。
こういう自分は好きじゃないなと思うからこそ、自覚なしに「かわいそう(=ばかだなぁ)」と言っている人を見ると微妙な気持ちになるのかもしれません。自分のことばかり語ってしまう気持ちもわかるからこそ……うん、そうね、そう。
「相手の立場に立って考えましょう」とはよく言われることですが、これはなかなか難しいことです。特に不安が大きく、「私はこれでよい」と信じる力が足りないときには、人と比べて「あの人より自分の方がまさっている」と考えたくなります。思わずマウンティングしたくなる気持ちを観察してみるとよくわかりますよね。はー、心当たりがありすぎて胸が痛い。
まぁこんな漠然と話をしても何の実もないのですが、できるだけ穏やかに思いやりの心を持ちたいという気持ちが強いので、上に書いたような反省をしたのでした。
外面を取り繕って「かわいそう」と言うのではなく「ばかだなぁ」と素直に言う。まずはそういう自分を認める必要があると思いました。「私はそんなことにはならない」「俺の方がすごい」と言葉にすることで己の傲慢さに気づけます。傲慢な人間は素敵ではないので、「よくあろう」と自然と思えるようになり、言動にも変化があらわれます。
……あーあ、人に優しくありたいなぁ。