「『四十にして惑わず』って言うけどさ、全然まだまだ、迷ってばかりだよ~」
と、そんな言をよく耳にします。
確かにまぁそうなんだろうなと思います。孔子の時代の40歳と今の40歳じゃ全然違うってことはあるにしても、惑うことがなくなるなんてことはないでしょう……って今調べてみたら、「四十にして惑わず」って一般論じゃなくて、孔子が「私はこうだったよ」と晩年ふり返って言った言葉なんですね。そりゃ孔子様ならそうでしょうよ。
まぁね、そうやって迷いながら生きていくのが人間らしさってことなんでしょうかね、人間は死ぬまで惑い続けるのです。そういうことでいいんだと思います。
先日読んだ本の中で、オーケンこと大槻ケンヂさんも似たようなことを言っていました(『FOK46 突如40代でギター弾き語りを始めたらばの記』より)。
40代は大いに惑う。ということを以前書いた。40代はまた、惑う自分に腹が立って困る。
もういい大人だっていうのに、14歳の頃のように漠然と日々惑っている自分の制御能力の無さにガク然とし、イラ立つ。
イラ立つとさらに、感情のリミッターが外れて、深い憂鬱の方向へ向かうことがある。
オーケンは、過去にパニック発作やうつの症状で苦しんだこともあるそう。原因として考えられるのは「ネガティブシンキングで長いこと生きてきた悲観・虚無発想の蓄積」で、「ニヒリズムのつけがまわった」との分析。
自分と心性が同じだ……と思ってしまいます。多分こんな感じで生きてる人ってけっこういるのだろうと思うのですが、どうでしょう。
さて、憂鬱とはつまり集中力だとオーケンは言います。
集中力が心配や不安や、曖昧であろうと明確であろうと、当面の、先々の、あるいは過去の、何かトラブルの一箇所へ集約された時、憂鬱は生じてそこに自ら落ちてゆくのだ。
なるほど確かに、憂鬱なときって、不安な気持ちや懸念事項に意識が向いっちゃってて、その視線が穴をあけちゃうわけですね。で、自分であけた穴にハマる。いや、穴というよりブラックホールみたいなものでしょうか。憂鬱という重しによってできた困ったそれ。
だから憂鬱にとらわれたくない人は、まずその集中力を拡散、あるいは別方向へ向かわせることだ。
人によってはどういうわけか集中力の銃口が常に憂鬱に照準を合わせているから、自らの意志を用いて別に向けるのだ。
その具体策としてオーケンが薦めるのが「お買いもの」。くだらないしお金はかかるが即効性はあると言います。
曰く、
特に、多少値の張る(自分にとってのレベルで)物を、どれにしようかこれにしようかと選択している時に、漠然と自殺について考えているやつはまあいない。
というわけで、オーケンは中古時計店で高級腕時計を見つめていたそうな。
「その金が無いから死にたいんだよ」という方には、うんと安価なものでもいいと思う。所有欲の刺激と金銭損失…選択のリスクが放つアドレナリンの快楽さえあればよいのだ。
なるほど確かに。じゃあ私も何か購入を検討しようと思った次第。
物欲がなくなっちゃときには、この方法も通用しないんだけれど、まぁそういうときはのんびり休んで、欲の生まれる兆しを敏感に感じ取ることでしょうか。なかなか難しいですね。ダメなときはどうやったってダメだから。
と、困ったときの対処法的な部分をピックアップしましたが、本書『FOK46』は軽いエッセイで、ところによっては私小説のような趣もあります。面白いので、つるつるつる~と読めました。
ふり返ってみると私って、人生に大きな迷いが生じたタイミングで大槻ケンヂの本を手にしている気がします。
何やら共通していそうな心の傾向(自意識過剰なところ、憂鬱に向かいがちなところ等)が引き合うのでしょうか。
まーでも大槻ケンヂという表現者は罪深くって、「何者でもない自分」「何者にもなれない自分」「何の才能もない自分」という雰囲気を醸し出して自分語りをするんですよね、だから勘違いしそうになっちゃう。中二病的な心もくすぐられます。
表現者が成功するために必要なことは、才能と運と継続だとくり返し述べ、自分には才能がないようなことをオーケンは言うわけですが、この人の表現にふれるたび、すごいな~才能だな~と思います。つまり非凡なのです。
シャンソンやボサノヴァを演奏する旧知のミュージシャンが、オーケンの即興テキトー弾き語りを聞いて、ちょっと驚いたような顔をした、というエピソードがありましたが、それは、まさにそういうことなのだろうなと思います。
そんなこんなで、ちょっと元気が出ました。この本を読んだあとで、散歩をしたのもよかったかもしれません。
死に向き合っているところが安心感を抱かせるのか、不思議と心が落ち着く本でした。