私は物事を「良い」「悪い」で判断してしまう癖があります。何でも白黒つけたがるんですね。そして、何かを嫌うことは悪いことだと思ってきました。
そのおかげで、どんなものにも必ず良いところがあるということを学びました。同時に、嫌悪をできるだけ感じずにすむ術も身につきました。誰とでも仲良く、何でも快く引き受ける。それが良いことであり、私の処世術となりました。
が、それは破綻しました。当たり前です。
そんな私が今考えていること。
自分は何がしたいのかわからない、そんな人と通じるものがあるんじゃないかなぁと思います。
以下、思ったことを書き連ねたら思いのほか長くなってしまいました。言いたいことはタイトルに集約されてるから読まなくても大丈夫よ、という親切仕様となっております。読むか読まないかはあなた次第です。
どうして好き嫌いしちゃダメなの?
良い悪いではなく、好き嫌いで。
そうすれば、苦しくて苦しくてどうしようもないという事態は回避できる気がします。
我慢するから苦しい。無視するからつらくなる。
我慢しなければいけない場面はいつだってあるけれど、「こうこうこういう理由で我慢する必要がある、それが自分のためになる、こういうメリットがある」ということをきちんと理解していれば、嫌悪感も何とか乗り越えられそうですよね。
押しつけられるままにやってるんじゃなくて、自分でちゃんと考えて選んだんだぞ、という意識。
と言ってもこれはきっと机上の空論。少なくとも今の私にはできそうにありません。だから私は回避的な生き方を選んでいます。ドリアンは食べません。それもまた好みの問題。おのおの好きにすればいいと思う。
「好き嫌いはいけません」
なぜ?
子どもの頃は素直に好き嫌いはいけないことだと思いました。今でもそういう意識は残っています。でも、なぜ好き嫌いが悪いことなのかと聞かれたら答えられません。
そりゃ何でもかんでも好き嫌いで判断して自分勝手な行動をする人は、非難されても仕方ない。社会的には認められないこと。だから「好き嫌いはいけません」。それはわかります。
けど、心の内で「これは好き」「これは嫌い」と思うのはその人の勝手ですよね。仕事など我慢しないと事がまわらないことは別として、「好きだからやる」「嫌いだからやらない」の何がいけないのか。
今、例外の一つとして仕事を挙げましたが、これだって別に変わりはありません。社会のために働くことは素敵だし、職業人のみなさまに対する感謝と敬意を常日頃感じているので、そういう人を批判するわけじゃないんだよという意味で言っただけ。仕事がイヤでも我慢しなきゃダメってわけじゃないと思っています。
だって、それで身体を壊したり死んじゃったりしたら元も子もないから。人はみな死ぬのだから何も問題はないと言われればそれまでですが。
でも、一生懸命働いている人たちは、生きるために働いているんですよね? 人のため、社会のため、未来のため、頑張っているんですよね? そうなると「?」です。人が苦しみながら死ぬことを求めているわけじゃないでしょ? って、これは極端な話ですけどね。話が飛躍するのは私の悪い癖です。
何にしても、苦しむこと・忍耐を強いる印象は拭えません。なーんか、みんな殺伐としてるよね~といつも感じています。もちろん、みんながみんなじゃないんですけど。
「良い子」は欲望を見失う?
小さい頃から大人の顔色を伺って生きてきた人は、多分自分の好き嫌いがよくわからないんじゃないかと思います。あるいは、それを表現することにとても抵抗を感じるんじゃないでしょうか。
誰に求められたわけでもないのに、周囲の人たちに喜ばれる選択をすることだって、その人の好みかもしれません。期待に応えることで得られる周囲の人たちの評価。それは自分にとってのメリット。別に何も悪くありません。
でも、メリットを得ているはずなのにつらくなってしまうのは、やっぱり他に望んでいるものがあるから。人は欲深い生きものだからということもあるけれど、純粋に「もっともっと」と望んで、喜びを積み重ねていくことはそれほど苦しみを伴わないはず。「虚しくなっちゃった」と思うことはあっても、生きることが嫌になってしまうほどの苦痛は感じないですよね、きっと。
「メリット」が自分にとって真の喜びか否か。本当は心から喜びを感じられないのに、「一般的に『よい』と言われるものだから、好ましいものとして受け取らなきゃいけない!」という意識があるんじゃないかしらん? ということです。
いや、子どもにとってはそんなことどうでもいい。生きるために必要なことだったんです。好き嫌いなんて関係ありません。生きるためには周りの大人に従って生きていくしかない。一人で生きていく力はまだないんだから。そのためにできることをするのみ。選ぶ権利などない。
あるいは、大好きなパパママに愛されたい。もっと私を見てほしい。褒めてほしい。自慢の子になりたい。感謝しているからこそ、恩返ししなきゃ。
そうやって好き嫌いを無視し続けてきた結果、現在の自分があるのでしょう。
だからこそ、今考える必要があるんだと思います。別に考えなくてもいいけど、「苦しいよ~こんなの嫌だよ~」と泣いているなら、考えた方がいいですよね。
好きか嫌いかで判断する。
簡単なようで意外とできないんですよねぇ。計算して判断する癖がついちゃってるんです。世間に評価されるか否か。そして、それができないと罪悪感を持つようになっていて。まるでプログラミングされたかのように。
それは決して悪いことではありません。でも、嫌いなことをやっているとフラストレーションがたまってきます。できるできないの問題ならまだいいんです。「顔が濡れて力が出ないよ~」はわかりやすいから。ただ、そこに「本当はイヤなのに」があると、不快な感情が増殖していきます。
「私はこんなに我慢してるのに」
「こんなことやりたくないのに」
これを自覚していないと変な形で噴出します。例えば、人への攻撃として。
「私がこんなに我慢してるんだからあなたも我慢しなさいよ! 好き嫌いで判断するなんて人としてありえない!」
これは自分にも向きます。
「みんなつらくても頑張ってるんだから、私も我慢しなきゃダメ!」
あの子が私を悩ませる。私があの子を悩ませる。みんながみんなを悩ませる。みんなは心を痛めてる~! すいみんすいみんすいみんすいみんすいみん不足!
まぁ、“みんな”が自分と同じように耐えているのかはわからないし、これはあくまでも自分の感覚。思い込みであることが多いんですけどね。
もっと「好き」「嫌い」を認め合えたらいいのにねぇ。個人の好みを肯定して考えれば寛容になれるし、「適材適所」もうまいこといきそうです。
多くの人が好き嫌いを我慢して生きちゃってるから、あとには引けないのかなとも思います。そんな自分勝手なことしたら世の中成り立たないだろって。
でも、果たして本当にそうなのかな? それは錯覚なんじゃないかな? と思います。だって、人間以外に目を向けると、こんなに苦しそうな生きものっていないような気がするから。生存の厳しさはあっても、それは苦悩とは違う。人間はみな苦しそうだ。
隣の芝は青く見えるので、人間以外のものが良く見えるだけなのかもしれません。でも、本当にそれだけ?
う~ん、どうでしょう。
操作的な「好き」にダマサレルナ
好き嫌いがわかりやすいのは人付き合い。「馬が合う」とか「生理的に受け付けない」とかがまさにそれ。
「みんなと仲良く」「友達100人できるかな」の意識が強すぎると、人を嫌うのは良くないことになります。仲良くしなければならない。こんな窮屈なことはありません。
相手を傷つけたりしなければ、別に仲良くする必要なんてないのに。そりゃみんな仲良しで楽しく過ごせたらそれは素敵なことですが、全員の価値観が同じわけがない。相手の良いところを認めることと、その相手が好きかどうかは別の話。
例えば嫌いな人。相手の言い分は理解できるし、悪い人でもない。魅力があるということもわかる。お互い気持ち良く付き合えるように努力した。でも、どうしてもダメ。なぜかわからないけれど何かイヤ。これが多分どうしようもないその人の好み。
それから、覚えておきたいのは、「好き」「嫌い」を本人が思い込んでいる場合もあるということ。
もはや善悪で判断することが染みついてしまって、それが自分の好みだと確信しているような人(私)のことです。善いことが好き、これは否定しようがありませんもんね。それが本物かどうかは本人にしかわかりません。
あと、「この人嫌い!」と反射的に言いたくなるとき。いくら断言していても、後々好きになる可能性は大いにあります。少女マンガのベタなパターン。最低の出会いから始まる恋愛、「あんなやつ大嫌いなのに……でも、でも」的な。
というか、相手のことを「嫌い!」と主張している時点で気になっているわけだから、それは興味を持ってるってことですよね。本当に好きじゃなかったらどうでもいいですもん。気を取られるのは、何かしら引きつけられるものがあるから。
そういう意味で、やっぱり「好き!」「嫌い!」とはっきり表現できる人はシンプルでいいですね。自分の気持ちに気づきやすいし、腹の内でぐちゅぐちゅしない素直さには爽快感を覚えます。
「好き」「嫌い」をごまかし続けていると、本心が見えなくなる。そりゃ当たり前の話ですわね。
そうして自分の好みに鈍感になっているところに、人の評価は入り込んできます。「人として」という道徳的な価値観。最初はよくても、だんだん窮屈になってくる。でも、悪いことじゃないから突っぱねられない。どうしよう、うわーん! ってな具合に。
だからこそ、好き嫌いを自覚することは大事。
嫌いな相手の良い部分・正しい部分に目を向けることは大事ですが、嫌いであることを否定する必要はない。もっとクリアな目で見ないと。自分をごまかしている人の目はきっとスモークがかかっています。人を嫌いにならないように、嫌悪ポイントをうまく隠す仕様になっている。
そのあたりのことを自覚するだけでもずいぶんラクになるんじゃないかな。って、これ全部自分のことです。
「好ーきーなものは好ーきーとー言える気持ち抱きしめてたい」ですよね。
アナタノコトガスキダカラ~!
<本日のBGM>
「すいみん不足」 CHICKS
「どんなときも。」 槇原敬之
ナミさん、こんにちは!
お久しぶりです。
このブログ、かつての自分を書かれているようでした。笑
>「一般的に『よい』と言われるものだから、好ましいものとして受け取らなきゃいけない!」
から下しばらくは特に(・・;)
それがかつての私にとっては生き延びる術だったのですが、
破綻してしばらく経って、その術が自分を苦しめていたんだろうなと
気づきました。
うまく言葉にできないのですが、
このブログを読んで気持ちがとてもスッキリしました。
ありがとうございます(^^)
めみさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。
自分の胸の内を吐露した内容に対して、このようなお言葉をいただき、私の方こそありがとうございます。
今までいただいたコメントからも、めみさんと私の生存戦略には共通点が多いなぁ~と勝手に親近感を持っております。というよりは、単にめみさんの人柄に魅かれているだけかな?
これまでに得てきたもの、痛みも含めたすべてを糧にしていけたらと思います。……と心から言える人間になりたいものです。
こんにちは。
2回目のコメントです。
初めましての際には、優しく、「あったかいんだからぁ~」な返信を有り難うございました!!
変わらず、
「うんうん、そうそう!」
「マジおっしゃるとおりでございます~!」
と、共感しながらスッキリさせて貰っています。
『好き』『嫌い』で決める… なんて簡単シンプルなこと!
ところがドッコイ、これがなかなか難し(汗)
ついつい色々と考え過ぎて~こねくり回して~、複雑怪奇なことに…
頭ではワカッチャいるけどそう出来ない… ヤヤコシヤヤコシですね。
でも、ナミさんのブログを読むと、言葉が素直に心に入ってきます。
そして、改めて「大切なんだよ」と気付かせて貰います。
『好き』の気持ちを大事に!『嫌い』の気持ちも大事に!
自分の心にウソばっか吐かせないよーにします。
おこがましいですが、「私もそうやってん! 同じや~ん」と『共感』でき、まるで対面して語りかけてくれているような優しい(そして笑いも忘れニャイ)文章表現…
だからきっと素直に心に入れることが出来るんだと思います。
こんなこと、なっかなかありません。
私は、アカンタレの意地っ張りのヘンコですから(…って自分で書いてて、アカンのフルコースやん、笑える~です)、『素直に』っていうのが超ムズイ子(オバハンですが)なんです。
なので、素直な心になれるナミさんのブログ、ほんと有り難いです。
ナミさんの表現をお借りして、
『感謝☆感激~禿げカツ―ラ』
さてと、『好き』の気持ちを大事に~
甘いもん食べて、しょっぱいのんも食べて、また甘いもん食べて…
あと、コーヒー飲みながら韓国ドラマを見まーす(笑)
ヌン!?捉え方がちと…ズレてないかーい?(笑)
長々と失礼いたしました。 ありがとうございました。
チーヤンさん、面白すぎです。思わず「ワロタwwwwwwwwwwww」と書きたくなりました。「アカンのフルコース」とか言葉のチョイスが秀逸すぎます。おいしいコメントありがとうございます。もしゃもしゃいただきました。
で、何の話だっけ? と思ってチーヤンさんのコメントを読み返したたらまた笑ってしまうという……。「こんなこと、なっかなかありません」ですよ、私の方こそ。もうね、こういうノリ大好きなんです。ごちそうさまです。
そうなんですよねぇ、もっとシンプルに考えればいいのに、自分で勝手にこねくり回して。そういうときいつも脳内マッキーが歌い出します。好きなものは好きって言いなはれ~! と。
素直な心も大切にしていきたいですね。これまたなかなか難しいんですが。まぁ、素直になれずに口を尖がらせているのも可愛いっちゃあ可愛いので、それもまたよし、ですかね。
甘いもん → しょっぱいもん → 甘いもん
これ最高ですね。肥えるけど幸せになれます。捉え方ズレるどころか最も大事なことだと思っていますワタクシは。これがあるから頑張れるのです(頑張ってないですけど)。
あったかいんだからぁ~にとどまらない、ホットホットなメッセージをありがとうございました。