大人たちが口にする言葉に執着していませんか?

落書きされた黒板と時計

大人たちとタイトルに書きましたが、年齢の上では私も立派な大人です。学校で「大人とは?子供とは?」という青年期の課題をテーマにした授業をやりましたけれども、そんなもん明確な境界線なんかないわと言いたくなりますよね。堂本剛さんは自著の中で、一人の人間に大人と子供が同居している的なことを言っていました。* ほんとそういうことだと思います。

さて、いきなり「大人」というワードだけでこれだけの行数を使ってしまいました。私が表現したかった「大人」とは、特定の誰かではない偉い人のことです。そういう権威的なものが発する言葉に私はしがみついていたよなぁというお話を今日はしようと思います。(本日の投稿は、まぁまぁ長くて見出しなし・改行少なめなので、余裕があるときにどうぞ)

「権威的なもの」と言うとこれまたわかりにくいのですが、何でしょう、社会のルールとか道徳とかの方がしっくりくるかもしれません。要は、先生が言いそうなこと。正しい言葉。優等生な言葉。「こうあるべき」という教え、というのがわかりやすいですかね。うん、「べき」「ねば」で伝えられるものです。

先ほど、ここで言う「大人」とは「特定の誰かではない偉い人」と書きました。特定の誰かではないと言っても、こういう類の話題を考えるとき、私の頭には必ず学校の先生たちの顔が浮かびます。私が受け持ってもらった担任や生活指導の先生など。これらの人は特定の人です。私は先生に対して腹を立てることが多くて、しょっちゅう「あのときああ言ったのに!」とプンスカしていました。小学校低学年の頃は、先生は神様みたいなものだと思っている節もあり、先生の言葉は絶対、朝礼で先生が「頭フラフラさせない!」と言ったら、絶対に頭をフラつかせないよう息を止めてカチコチになるほどの服従ぶり。さすがに年を経るごとに、そこまで極端な言動はなくなりましたが、権威に対する畏敬のようなものは根底にあったように思います。

権威的な人が発する言葉が正しいと思っていた私は、学校の先生を人間ではなく、権威そのものだと考えていました。と言っても、当時そんなふうに認識していたわけではありません。今振り返って言葉に置き換えてみると、そんな感じだったなぁと。だから、先生は絶対正しい。もちろん先生だってちょっとしたミスをすることはあるけれど、根本的な土台は絶対に正しいので、その指針に従うことが正しい。強いて言葉にするなら、そんな感じ。それゆえ、先生がその(私が正しいと信じる)指針に反するようなことを言ったりやったりすると、戸惑ってしまいます。それが「あのときああ言ったのに!」です。はっきりと明言した言葉に反した言動であればわかりやすいのですが、必ずしもそうではありません。ぼんやりと受け取っていた指針があって、先生の言動からほんのりと漂ってくる正しくない感じを嗅ぎ取ったとき、私は混乱してしまうのでした。それにより、不安や怒りも生まれていたのではないかと思います。さらに私は感情を抑えるタイプの子供だったので、うまく発散できず、たびたび頭痛に見舞われたのではないかと考えます。

こういう傾向は、今も残っていると思います。というより、程度の差はあれ、多くの人が正しいとされる指針に沿って過ごしているはずです。その指針は社会の共通認識であり、偉い人もはっきりと口にする言葉だと思います。

でも、言葉は文脈によって意味が変わります。だからこそ法律はあれだけ難しい言葉で回りくどく書かれているわけですよね。誰が読んでも同じ捉え方ができるように。それでも解釈の違いがウンタラとか言って、絶対的な正解を示すことはできません。ここからも言葉ですべてをフォローする難しさがわかります。

 

病気になったことをきっかけに、私の中で大規模な意識改革が行われました。権威が提示する言葉を人生の指針として生きてきた「私」はずいぶん小さくなりました。それは良いことだと思っています。言葉は変化するもので、形をとどめることはありません。にもかかわらず、私は言葉を石に刻みつけられたもののように思って大事にしてきました。言い方を変えると、セリフそのものに執着してきました。最初に与えられた指針に沿って行動してきたので、それを覆されたら、自分の存在そのものまでひっくり返されてしまうという恐れがあったのだと思います。やっぱり自分には、軸や地盤がなかったんですね。だから、執着せざるを得なかったのかもしれません。そうじゃないと、自分を保てなかったのでしょう。

療養中、自分のこれまでの生き方をふり返ってみる過程で、言葉がちっとも役に立たないと憤っている時期がありました。自分が思っていることをそのまま形にできない言葉はポンコツだな! と。でも、私が形にしたかったものは何かの形に置き換えられるものじゃないということがだんだんわかってきて、言葉がポンコツなんじゃなくて、この世界のよくわからないものが凄すぎるだけなんだと気づきました。そうしたら、逆に言葉の凄さを思い知りました。もう、先生や偉い人や世間が正しいと示すルールなんて霞みます。もちろんそれらのルールを軽んじるつもりはなくて、むしろこれまで通り大事にしたいとは思います。でも、ちょっとそれどころじゃないんですよ、ちょっとちょっと、すごいんですよ、と意識を「正しいルール」だけに向けているのが最適だと思えなくなりました。

 

中学一年生のとき、初めて英語を習いました。最初の方の授業では、簡単な単語を勉強します。「This is a pen.」とか「I am Nami.」とか。イラストつきの英単語カードを使って先生は説明します。その中に青リンゴのイラストがありました。「apple」と書いてあります。それを見ながら、「誰が最初にapple」と言ったんだろう? と考えました。みんなに「これをappleって呼ぼう」って言ったのかな? 「赤とか緑とかいろいろあるけど、こういう形のものはappleってことにしよ?」って? それがだんだん広がっていって、みんなが知ってる共通認識として「apple」が定着したのかな? それってすごいな。でも、じゃあ「これを○○って呼ぼう」って言葉はあったのかな? そういう言葉はなくて「ウホウホ、ウホ、appleウホホ」ってゴリラ的に伝えたのかな? でも、appleだけじゃ会話にならないよね、しかも一つ一つ「これを○○って呼ぼう」なんて膨大すぎて無理だよね? え? 意味わかんないんですけど? なんでみんなこんなに言葉をベラベラ喋ってんの? え? 何? え、怖くない? 全部言葉で考えてるけど、これ何? 怖っ!! ……などと思いを巡らしていたら、完全に授業から置いてかれてる状態で、二度とこのようなことをしてはいけないと心に誓った日がありました。あの感じはもうちょっと大事にしておくべきだったなぁと今になって思います。完全に断ってしまうのはもったいなかったです。

まぁ、それは別にいいんです。それぐらい言葉というものは曖昧で捉えどころがなく、それゆえに変幻自在の便利なもので、すごいよねぇ~という話。これで何かを「正しい」「こうすべき」なんて規定できるわけがありません。ある程度の方向を示すことはできても、それはぼんやりしていて、本当に正解だと証明できるものではありません。そんなものを使って、自分の気持ちを表現しようなんて、神技か! と言いたくなるくらいハイレベルな仕事です。無理です。だいたいが自分の気持ちだってぼんやりしてよくわからないってのに、「ぼんやりしたよくわからないもの」を「ぼんやりしたよくわからないツール」で表現しようって何じゃそりゃ。やっかいなことに、言葉は一見はっきりとしたわかりやすい形を示しているように見えるがゆえに、ぼんやりしたものだということも忘れさせてしまうんですよね。言葉は仮初めのもの。冷蔵庫の残り物じゃ、もこみちの料理は作れません。松の実とか常備してないから。そんな小洒落たものは私の住む世界には存在していないから! ……ってまったく違う話になってしまいました。とにかく言葉は真実を表現するには全然足りないということです。

だからね、「あのときああ言ったじゃん!」と矛盾に憤っていた自分にこのことを教えたいですね。言葉で人を縛り、自分を縛り、その状態に苦しみながらも、そうしなければ自分を保つことができなかった消えてしまいそうな自分よ。

今ここにいる私も弱くて消えそうだし、もっと気楽にいこう。ね? Take it easy やで!

 

* 堂本剛『ぼくの靴音』より
この本の感想はこちらで紹介しています。

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