「考えさせられた」って何を考えさせられたの?と自問する

フラミンゴの浮き輪

学校の授業で感想を求められたとき、「考えさせられました」とよく書きました。

例えば、温暖化や河川の汚染、深刻な公害などの環境問題について。「一人一人が考えていかなければならない問題だと思いました」とか「改めて大切なことだと気づかされました」も使っていました。

今思うと何も考えてなかったですよね。いや、何もってことはないにしても、言葉で語れるところまで考えていなかった。「ふ~ん」と思って、ただぼんやりしていただけ。具体的に考えていないから、何を考えたのか書けない。

このブログでも使っていますね。「いろいろなことを考えさせられます」とか。うまく言葉で言えないときにこういう言葉を使いがち。「考えさせられる」の他に「いろいろ」も頻出です。自信がないからごまかしちゃう。間違いたくなくて、こういう言葉を使ってしまうパターンもあります。映画やドキュメンタリーの感想を求められたときにも使ってしまいますね。

「考えさせられた」だけだと、向き合った気分になって終わりです。もちろん、事実を知るだけでも十分意義があると言えるし、それをきっかけに考え始めることもある。だから、必ずしも悪いことではありません。でも、考えないまま終わってしまうことも多い。せっかくよい学びを得られたかもしれないのに。

ちょっと立ち止まって「何を?」「どんなふうに?」「なぜ?」と自問すると、答えが見つかり、スッキリすることがあります。だから、ちゃんと考えてみることが大事。

とはわかっていても、大抵はうまく言葉にできなくてモヤモヤしてばかり。それでも、モヤモヤを自分なりにこちょこちょして、捨てずに取っておくと、あるときふっとわかったりするんですよね。似ているものが見つかってヒントになることもあります。

私の場合、ブログを書くようになってから、そういう習慣がついたのかなと思います。そして、「『考えさせられた』って何を考えさせられたの?」と自問するようになってから、受け取ったものを咀嚼できるようになった気がします。だから、最近は「考えさせられました。」とは書いていないはず。

時間がないときや、心に余裕を持てないときには難しいけれど、考えることを放棄したくないものです。そうは言っても、考えるのってめんどくさいし、疲れるから、すぐサボってしまうのですが。

「何が?」「どんなふうに?」「なぜ?」それをくり返すことが、前進する原動力になります。自分一人で考えていると間違った方向に爆走してしまうこともあるので、ときには人の意見も参考にしながら。人が何をどう考えているのか聞くのって面白いですしね。

以上、電車で若い男性が「考えさせられるわ~」と言っているのを聞いて、いろいろ考えさせられたので、「考えさせられる」という言葉に対して自分が何を感じ、どんなことを考えたのか考えてみました(この件に関しては、男性のイキってる感じが鼻につきました)。

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