私の頭が完全におかしかったときの話

花束花束花束
相変わらず無気力で困ったなとぼやいている私です。

先日、『フィーリングgoodハンドブック』をやっとこさ読み終えたよーという話を書いたのですが、そのとき、最近の本の読めなさ加減について考えました。

うつ症状が重いときって、活字を目で追うことが困難になるじゃないですか。最近またその感じに近づいてるなーと。いえ、ほんとにダメだったときに比べれば全然まだまだ大丈夫なんですけど、ここしばらくはちょっと頑張らないと読めない。どんな易しい内容でも、読み始めに引っかかりがある感じで。

で、そういう状態になると必ず思い出すことがあります。それは、頭の一部が冴えて、難しい本でもぐいぐいと読める時期があったよなーという過去に体験した不思議な感覚。

そんなところから、「鈍い状態と冴えている状態、どちらがましなのだろう」と思いつくままつらつら書いていったら、私の頭(脳?感覚?)が通常と違っていたときの話になっていました。

結論は「仕方ないから、今のこのダルさを受け入れるよ」といったところでしょうか。

人間とは誠に不思議な物体でございます。
 

鈍った状態と冴えた状態、どっちがいいんだろうね?

感覚が鈍って体が思うように動かないと不便なことが多いので、鈍い状態は好ましくありません。

だからといって、冴えた状態になればいいのかというと、必ずしもそれが良いとは言えません。

なぜなら、私の場合「冴えた状態=危ない」という印象があるからです(もちろん普通になれたらそれが一番いいんですけどね……、それがなかなか難しいのです)。

私は現在、うつ状態と軽い躁状態を起こす双極Ⅱ型障害(躁うつ病)という診断が出されていて、軽躁と見なされる過去のエピソードもいくつかありますが、自分としてはそれが病的なのか微妙だと思っている、ということはこれまでに何度か書いています(参考:『ノーチラスな人びと 双極性障がいの正しい理解を求めて』感想)。

とはいえ、実際にどんなエピソードがあったのか書き出してみれば、「あ、これ完全に普通じゃないじゃん」と言えるし、周りから「あのとき変だったよね?」と言われる程度には平常時のレベルからはみだしていました。

具体的には、2~3時間しか眠らなくてもバリバリ活動する、毎日楽しくて仕方ない、アイデアが次から次へと浮かぶ、饒舌になる、数十万の高額な買い物をする、などなど。

けど、「若いときって多かれ少なかれ無茶するもんでしょ」とか言われたらその範疇かなという気もするし(よく事情を知らない人が言った言葉なので、ここで適用はできないでしょうが)、ただ受け入れたくないだけな気もするし(多分これが正解?)、よくわからんです。

 

自分にとって一番困るのが、感覚の変容です。

一時期は、頭の一部分がものすごく冴えて、感覚的に「わかる、わかるぞ!」と思えることが多くありました。これはひどいうつ症状を起こした後の話です。

体はダル重でボーッとしているのに、脳の一部が鋭く働いて、難しい本や論文もぐいぐい読める。内容が脳内に染み込んでいくみたいに理解できました(いわゆる混合状態?)。

それで「完全に理解した!」と思って書いた当時のメモがいくつかあるのですが、今それを見てもさっぱりわからない。「完全にわかっちゃった!」と思ったあの感覚はよく覚えているんですけれど。

理解できたと思ったのは勘違いだったのかなぁという気が今はしています。でも、その勘違い(妄想?)から面白い発想や創造物が生まれたり、なるほどと思えることもあったので、自分にとってはそれなりに価値あるひらめきだったのだ、とも思います。

 
で、その冴え冴えだった時期、自分が見ている世界は常時じりじりしていました。激しい耳鳴りと同時に、全体が赤黒くチカチカと見えたり、昔のテレビ放送の砂嵐のようにザーッとしたものが見えたり、大量の虫が全方から湧いて浸食されるような感覚になったり。周りや自分の体が腐敗するイメージがいつもまとわりついていました。

あるとき、直感的に「世界が終わる」と思ったことがありました。

目の前にある世界が割れて崩れ落ちるような……あのときの感覚を言葉にするのは難しいのですが、得体の知れない何かが迫ってくる感じが奇妙で恐ろしかったです。それは今までに味わったことのない恐怖感でした。

そのとき私は駅のホームに立っていて、周りの人が誰一人として気づいていないことにも焦りを感じて怯えました。すでに自分の足下は浸食され腐敗し地中に吸い込まれていくような感覚でぐらついていました。その後どうやって家に帰ったのかはよく覚えていません。

 
今ふり返ると「あのときはおかしかったなー」と思いますが、果たして本当におかしかったのでしょうか。もちろん「通常とは違っている」という意味では完全におかしかったのですが、「おかしい」という幅のある言葉を当てはめていいのか自信はありません(と言いつつ、わかりやさすさを優先してタイトルに使ってしまいました)。

ともあれ、当時の私は心身に変調をきたしていて、その一環として(?)脳の一部分が変に冴えていたのかなと思います。五感が研ぎ澄まされているようにも感じていました。よくわからない各種の不思議体験は脳の誤作動とも言えそうです。

そんなわけで、爽快感や冴えた感覚に強く憧れる気持ちはあるのだけれど、同時に「冴えた状態=危ない、怖い」というイメージが呼び起こされるので、現状のダルネスな感じを「この方がまだましだろう」と思って受け入れています。ぶっ飛ばすより低空飛行が望ましい的なことを主治医にも言われましたしね。

こういう奇妙な恐怖とはまったく別の次元で、現実に起こるさまざまな出来事に絶望することも多い日々ですが、自分や他人を物理的に傷つけることなく今日を生きられていること、そのことに感謝するというか、今日も無事に過ごせてよかったなと肯定する感じで過ごしていけたらと思います。

世界は今日も続いているようなので。

 

2 COMMENTS

あたま

更新ありがとうございます。
私の場合は、からだが、鉛のようにおもくおきあがるのに必死だったのを覚えています。あと、寝汗がすごかった。

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アジサシ

とても興味深いお話でした。
僕は双極性と言われていませんが、共感するところがあります。
こういう体験は文学的なのかとも思いました。
できないことはない。やれば何でもできる。人が嫌がることだってやる。そうするのが正しい。そして真逆の状態になってしまいました。
「頭がおかしい」感覚は、今でも時々感じます。でももしかしたら、おかしいのは自分じゃないのでは?なんてことも思ったり。
今の自分を肯定したい。そう思いました。

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