自分が考えたいことを考えたい

情報社会だからでしょうか、興味を引かれるものが多く、注意があちこちに飛んでいきます。収集がつかない。困ります。

そうやってたくさんの刺激を受け取るので、考えたいこともたくさんです。だけど、どうにもまとまらない。

世界とか存在とか言葉とか。理不尽なことに対してなんでなんでなんでって思うこととか。絶対的なものなんてそうそうないじゃん、なのにあたかも正解が存在しているかのようにあるこの社会とは!!!みたいな思いとか。怒りなのかな、怒りもあるかもしれないし、悲しみもあるかもしれない。

まあそんなに考えをまとめたいとか、言葉にしたいとか強く思っているわけでもないのですけれどもね。自分がわかればまあオッケーみたいなところもけっこうある。だから、こんなにぐちゃぐちゃの文章を書き連ねてしまうわけなのですけれど。たまには素直な吐き出しもいいでしょうってことでそのまま出力してしまいます。

考えたいことがたくさんある。頭の中がまとまらない。

バーンズ不安調査票に「思考が空回りする、思考が次から次へと飛び移っていく」という項目があるんですけど、それに当てはまる症状なんでしょうか。ちょっと違うような気もする。調子が悪いときの空回りの仕方はもっとこうほんとに飛び移っていく感じがあるし、混乱がまじってることもあるから。いや、自分の感情がついていけないぐらいの勢いがあるかも?脳の暴走みたいな。

まあ何はともあれ、大事なことを考えるのはいいことだと思うので、これからも大事なことを考えていきたい所存です。

でも、日々の生活は自分が大事だと思うことよりは大事じゃないことで溢れているので、結果的に自分にとって大事なことを考える暇がなくなってしまうのですよね。

こんなことでいいのでしょうか、否!

でも、仕方ないことではあります。

折り合いをつけることができるのが大人なのかなと最近はよく思います。妥協とも言います。譲り合いの精神とも言えるかもしれない。なんとでも言えるでしょう。物は言いようです。

大人とは何か。その定義を問われることがありますが(ほとんどないですが)、世界がいかに複雑であるか、複雑すぎて自分には到底理解できないと知っていること、完全に理解はできないが理解しようと努めて向き合う、そういう前提で語る人を見ると、大人だなぁと思います。

でも、だからといって、そうじゃない人は大人じゃないというわけではないです。「大人」「子供」とかいう区分けはそう簡単にできないので。

区分けは仮初めのラインにすぎません。運動会の前日に、グラウンドのライン引きをしましたけど、あれと同じ。石灰の白いパウダーが入ったブリキ製の赤いやつをゴロゴロ引っ張ってトラックやらいろいろな線を書くやつね、今もあるのかな。せっかく頑張ってライン引いたのに、みんなが走り回った後にはぐちゃぐちゃになって消えちゃってね、ちょっと切なさがあってね。まあ運動会はさておき、そういう一時的なものなのですよね、区分けというものは。紅組白組のグループ分けと同じ。絶対的なものではありません。

けど、絶対的なものではないから何だ、となってしまうのが現実であって、それを言われると困ってしまって沈黙してしまうのですが。

それでも内心の自由はあるので、私はただ私にとって大事なことを考えるだけ。

それをうまく言葉にできたらいいんですけど、なかなかそのあたりは難しくて、今も練習中です。

一生練習ですね。

 

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