半オートマチック餃子とパラパラな心

先日スーパーに行ったら冷凍食品が安くなっていたので、餃子を買いました。「油いらず水いらずフタいらず!」とパッケージにでかでか印字されています。実際に作ってみたらめちゃ簡単にできあがったので感動しました。

用意するものは、フライパンと餃子。工程は、餃子をフライパンに並べて中火で7分焼くだけ。「たったこれだけ!」って素敵。難しいことは何もしていないのに、美味しそうな羽根つき餃子ができあがりました。油も水も片栗粉も不要。すごい。万歳。食べてみたらお味も納得のグッドでした。すごい。手も汚れない。洗い物も少くすむ。

こういうオートマチック具合に最近心地よさを感じてしまいます。「何も考えなくてOK」。選択が面倒で、身を委ねたくなってしまうのです。危険です。

でもさ、でもさ、人間は間違えるから機械に任せた方がいい部分って多いんだよ、車の自動運転も早く実装されてほしいよね、ていうかさ、人間はおかしな選択をするし、時に人を傷つけることも平気でしちゃうんだから、もう機械に管理された方がいいんだよ、人を傷つける感情なんかない方がいいんだよ、などという危険思想っぽいものを抱いてしまうに至って、いかんいかんと自分の頬をペシペシ叩いて妄想の世界から這い出すのです。
 

さて、自分は機械になりたいとよく思うのですが、それって結局「死にたい」の言い換えにすぎないんだなと、五味太郎さんのインタビュー記事を読んで思いました。

五味太郎さん「コロナ前は安定してた?」不安定との向き合い方 – withnews

心っていう漢字って、パラパラしてていいと思わない?

心は乱れて当たり前。常に揺れ動いて変わる。不安定だからこそよく考える。逆に、「揺るぎない考え方」って死んでるってことじゃないかな。

ローリングバランスってあるじゃないですか、筒の上に板を置いて、その不安定な場所に乗っかってバランスを取る曲芸。あれ、しんどくないですか。見てるだけで(想像するだけで)ひゃーってなります。ひゃーってなりながら、生きるってつまりローリングバランスをずっとやり続けてるようなものなんじゃないかと思うのです。そして、いやそりゃそんなもんしんどいに決まってるわと納得するんですけど、揺るぎない状態が死んでいるということなんだとしたら、ローリングバランスでバランス取るのをやめることも「死」と同じだなと思ったんですよね。GAME OVER!

先に言った通り、「機械になりたい」=「死んだ状態になりたい」ということです。私の場合、実際まったくその通りで「なるほど確かに」と唸りました(「死んだ状態」より「まるで死んだような状態」と言った方がよさそうですが、まぁこまけぇこたぁいいんだよ)。

「心は乱れて当たり前」。私の心は今も乱れているのでしょう。ゆらゆらグラグラだらだらグチャグチャ。

ぼんやりしているとろくでもないことばかり考えるので、何かに没頭するのが吉です。

半自動でできあがった餃子を食べながら思ったのは、自分で考える頭と、敏感で時折きちんとサボれる体が必要だなということです。

そして、没頭するためには、手作り餃子をもくもくと作り続けるのがいいかもしれないと思い直しました。

考えていることもパラパラ散らばっています。

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