森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』感想

スモーク

コーヒーを飲むとき、私はいつもミルクを入れます。コーヒーに溶け込んだミルクはもう取り出すことができません。そこに確かに存在しているけれど、「ミルク」として指し示すことはできない。ただ、私に言えるのは、「このミルク入りコーヒーはうまい」ということ。

森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』は、私にとってそんな作品でした。

映画『FAKE』公式サイト|監督:森達也/出演:佐村河内守

ゴーストライター問題で注目を集めた佐村河内守さんにスポットを当てた映画です。森達也監督、15年ぶりの新作。

映画を観てから、喋りたいことはたくさんあるはずなのに、どうもうまく言葉にできないでいました。ただ「めちゃくちゃ面白かった」としか言えない。

それでも、何か書きたいなという気持ちになったので、今思っていることを書きます。『FAKE』の感想というより、作品をきっかけに考えた自分のことです。

このブログは一応「心を軽くするヒント」を探るのが目的なので、その観点から少し前置きすると、私はこの映画に自分を肯定してもらったような気がします。ずっと自分を、あるいは誰かを押し込めてきた枠から解放されたような、ほのかな安堵感を覚えました。

そういう内容の映画じゃないんですけどね。これが私の視点と解釈です。

私が見ているものは真実か?

まず、この作品の中で印象的だったのは、佐村河内さんの悲しみとピュアさとズルさ。

人の悲しみにふれると、その人がどんな人であれ、心を寄せたくなるものです。佐村河内さんの寂しそうな顔を見て、私もとても切ない気持ちになりました。

彼の喪失体験は、本当につらく激しい痛みの伴う経験だったことでしょう。

そのことには同情しつつも、「だまされないぞ」という警戒心が強く働いていました。

さて、そんな彼の表情を撮影する森監督。監督は何を感じていたのか? 終始そこに意識が向いていました。

佐村河内さんや奥さんが話す。「今、森監督は何を考えてる?」。そのくり返し。意外と、カメラを回しているときには特に難しいことは考えていないのかなとも思うのですが、少なくとも編集されたこのフィルムには彼の意図があります。

そして、それを見ているこの私。

あるシーンにおいて、佐村河内さんはとても悲しそうに見えました。けど、それはそれとして、本当のところはどうなの?

どれだけ彼の仕草や表情を見つめても、彼らが過ごす環境、周囲の物を見つめても、レンズを通して映されたものしか見えません。

そこから何かを見い出すことはできます。でも、それは、私の内にあるものが映し出したものに過ぎません。私というフィルターを通したものは真実と言えるのか。私のカメラレンズは汚れたり歪んでやしないか。

結局のところ、佐村河内さんの真意は佐村河内さんにしかわかりません。森監督の真意は森監督にしかわかりません。

そして、私の気持ちは私にしかわかりません。

さらに客席には、この映画を観ている人の数だけ視点があります。みんな一体何を見て、何を感じているのだろう。

あちらこちらから注がれる視線を意識すると、自分が受け取ろうとしていたものが、立体的になります。ぼんやりした掴みどころのない何かに取り囲まれているその対象は、多数の視線に貫かれます。宇宙に浮かんだ惑星にいくつもの銛がブスブスと刺さっているような。それを見ているのは誰? と考えたところで、森監督が「嘘ぴょ~ん」と言ってすべてひっくり返すんじゃないか、と我に返ります。もはや私は何を見て何を考えているのかさっぱりわからない。

そんな圧倒的なわからなさを前にして突きつけられる表現。

目の前にあるものをキレイに切り取って、明確に説明することなんてできないんだと思い知らされます。だからと言って、曖昧さに身を委ねれば、大事なものを見落としてしまいます。

どういう意図でその言葉、表現を使っているのか。まっすぐ見つめたいと強く思います。宇宙に飛んでってるようじゃあきまへん。まだまだ修行が足りまへん。

「厳密にはそうじゃないんだけどね」

自分が見ている光景や受け取った表現を真実だと思い込む。

私はこれまでそうやって過ごしてきたように思います。

曖昧なものを曖昧なままにしておけない。本当はわかっていないのに、わかったつもりになってしまう。

例えるなら、虹を描くときに黒ペンで8本の線を引いてしまうような。

デフォルメしたイラストは「実物はそうじゃないんだけどね」という前提で描かれます。「こうやったら面白くない?」「伝わりやすいよね?」、それが一つの表現。

でも、それが当たり前になると「本当はそうじゃないんだけどね」が抜け落ちてしまいます。思い浮かべるのは7色で彩られた弧を描く虹。

『うつ病の真実』について書いたときも、その「厳密にはそうじゃないんだけどね」のもどかしさを感じました。問題解決のために伝えなくてはいけない以上、何らかの形にしなければいけません。

「ドキュメンタリーは嘘をつく」と森監督は言います。言葉も同様に嘘をつくと思います。「語る」は「騙る」である、と言う人もいます。

社会学者の宮台真司氏が寄せたコメントには、「社会は間違いなく、善悪や真偽や美醜の二元論で言語的に構成された悪夢なのだ」とあります。

痺れました。

白黒思考からの解放

善と悪に人を当てはめ、同時に当てはめられ続けた自分は、このマーブル模様の映画によって、混沌に投げ込まれました。呪縛から解放されたような感慨もあります。

「ちょっとでも間違ってはいけない」
「悪い人間は価値が認められない」

そんな強迫的な思考に追われながら過ごしてきた私に足りなかったもの。

ありのままの自分が肯定されるべきものと思えない私に足りないもの。

この映画にその答えがありました。溶け込んでいて取り出すことは難しいのだけれど。

と言いつつも、やっぱりこの映画について考えていると、自分が何を見出したいのかわからなくなります。

混沌の中に溶け込んでしまうような、泥沼の中にズブズブ沈み込んでしまうような、すべてをひっくり返されてしまうような。

でも、私はそれがとても居心地が良いです。これこそが世界のあり方なんだ、という安心感を覚えます。

きったない海でふよふよ漂う藻になったような気分。

猫とケーキと豆乳の映画

人が皆、カメラを構え、各々のレンズを覗いている。この映画を観てから、私の中にそんなイメージが貼りついています。

「さまざまな解釈と視点があるからこそ、この世界は自由で豊かで素晴らしい」と森監督は言います。

本当にそうだなと思います。素敵な気持ちになれる言葉です。

でも、私はネガティブで怖がりなので、自分を脅かす解釈や視点もあるに違いないと想像して怯えます。

そんな私が眺める世界は、これいかに。

「不信」という切り口でも語れそうな内容ですが、とりあえず、喋りたいことは喋ったかなーという感じなので、今日のところはこの辺で。(と言いつつ、まだまだ喋り足りない感はあります……)

こういう素晴らしい作品に出会うと、生きる力をもらいます。

あと、猫がめっちゃ可愛いです。いい仕事してます。そして、この映画を観てから、豆乳を見るたびに愉快な気分になります。

映画でこんなに笑ったのは初めてかも。私が観た回はみな爆笑していました。会場の一体感は心地よいものですね。でも、笑いながら困惑してしまうような引きつってしまうような……。

最高のドキュメンタリー映画でした。

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