己のダメっぷりに打ち負かされたとき役立つユニークな例え話

蝶々カチューシャをつけた犬

「頑張りたいのに頑張れない」
「どうせ私には何もできない」

自分がいかにダメな人間か考え出すと、気分はどんどん暗くなります。無力感や劣等感に支配されれば、前向きなエネルギーも奪われます。

もっと明るい気持ちで過ごしたいのに、どうして自分の人生はうまくいかないのか。

今日は、そんなお悩みを軽くするヒントをご紹介します。 こわばった心をほぐしてくれる楽しい言葉です。

無力感や劣等感に支配されてしまう理由

目の前のやらなければいけないことに圧倒されたり、劣等感のあまり自分のことが心底嫌になったり。その時々の感情は自然なもので、決して間違ったものではありません。

ただ、小さな不快感ですんだものを知らず知らずのうちに大きく育ててしまうことがあります。一体なぜそんなことになってしまうのでしょうか?

「一生分の食物」を想定している

「このままじゃいけない」と一歩踏み出そうにも、何をすればいいかわからない。理想と現実のギャップに圧倒されて、自分のすべきことが困難に思える。そんな中で将来のことを考えると不安で途方に暮れるばかりです。

「頑張らなきゃ! でも、私にはできそうもない……」

そんなとき思い出すのがデビッド・D・バーンズ氏のユニークな例え話。彼は、虚無主義に陥ってしまう状況をこんなふうに説明します。

たとえば食卓につくたびに生涯にわたって食べなければならない食物のすべてを考えるようなものだと想像してごらんなさい。目の前に何トンもの肉や野菜が積み重ねられて、死ぬまで食べなくてはいけないんだと想像してごらんなさい。食事のたびに、「これは、ほんの一部なんだ。どうやって今までたくさんの食物を食べてこられたんだろう? 今夜、山ほどハンバーガーを食べたって何の意味もないんだ」と言ったとしましょう。きっと吐き気がして圧倒されて、食欲はなくなり胃は凋(しぼ)んでしまうでしょう。

(『いやな気分よ、さようなら』p.87-88)

「自分には到底できない」と無力感に襲われたとき、目の前には一生分の食糧がドドーンと積み重ねられている。そうイメージすることで、自分がいかに無謀な目標を想定しているか気づきます。

不調で身体が動かないときに「あぁ、できない」と落ち込んでしまうのは、胃腸の弱っている人が焼き肉満腹コースを前にゲンナリするようなものかもしれません。次から次へお肉のお皿が運ばれる……ウップ。

食べられる分だけ食べればいい。一口ずつ、よく噛んで。ゆっくり味わって食べましょう。

おかしな決めつけ「食べ人間」「呼吸人間」

もう一つ、バーンズ先生の例えで好きなものがあります。

私はすごい才能に出会うと、自分がゴミクズのように思えて落ち込むのですが、そうやって自分を無能な奴だと決めつけたくなったときに役立つ考え方です。

あなたが食べたり、呼吸したりするからと言って、「食べ人間」「呼吸人間」などというレッテルを自分に貼りますか? ナンセンスです! 同様に失敗したり、負けたからといって、「失敗者」「敗北者」というレッテルを貼るのも不合理なことです。

(『いやな気分よ、さようなら』p.33)

能無しではなく、ただできないだけ。「あぁ、うまくできないなぁ」と言えばいいだけのことでしょ? と。

「ダメ人間」のレッテル貼りは、先の「一生分の食物イメージ」とコンボで発動することもあります。

「すごい人がたくさんいる」
→「できない私は無能」
→「もっと頑張らなくちゃ」
→ 非現実的な目標を掲げる
→「私にはとてもできっこない」
→「やっぱり私は無能な人間だ」

はい、撃沈。

自分で間違ったイメージを定着させている

一歩引いて見てみれば、自分の考えや行動はまるでコントのように滑稽です。自分で作り出した大げさなイメージに打ち負かされ、さらに、そのイメージを何度も何度も思い出して定着させてしまう喜劇(悲劇?)。

自分ではそんなつもりはなくて、単なる戒めだったり、「もっと頑張れ」という励ましだったりするんですけどね。

いやな気分に支配されがちな人は、よろしくない思考パターンを持っているのでしょう。きっとその思考パターンは一つではなく、バリエーション豊富に違いありません。

それが組み合わさって、おかしな思考はますますこじれる。相乗効果で間違いは強化され、広がり続ける。

その状態は、ピカソもビックリな前衛芸術。

と言いたくなっちゃうくらいシュールですよ、と。

不愉快な事実を必要以上にクローズアップしない

いやな気分に支配されると、事実を正しく認識することが難しくなります。

だから、せめて自分を責める材料を必死になって探さないこと。

癖になっちゃってると簡単には直らないんですけど、気づいたときにやめるよう心がければ、少しずつ変わっていきます。

思考の歪みを矯正せねば! と力む必要もなくて、ありのままを眺められればOK。

間違った捉え方に気づいたら「大仰な奴っちゃなぁ」と微笑ましく眺めるのがよいですね。だって、大げさにワッショイワッショイやってる自分、子供みたいで可愛くないですか?(とりあえずここでは可愛いことにしてください)

私は自分をぶん殴りたくなることが多いんですけど、乱暴はいけないぞ! と言い聞かせて、自分の中にいるアホな自分を可愛がりたいと思います。

最近は「無能」ではなく「低能な奴」と罵るようになっただけ成長しているんです私。

そんな感じで少しずつ、イメージの力を借りながら、攻撃的な手をゆるめていきたいですね。

 

<参考書籍>

2 COMMENTS

あたま

あくまでも私の、場合ですが、
世界60億人のなかで、自分は、世界ランク何位なんだろう、と、時々、考えます。
自分よりも上の人も、たくさんいるけど
下の人もたくさんいるはずだ、
ひょっとしたら自分は、すごく、幸せかもしれない。
そんな風に、時々、考えます。
あまり、いい考え方では、ないかもしれませんが、そうやって、気持ちの底上げをしてしまいます。

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まるすけです

大げさなやっちゃなぁ〜(笑)

まさにピッタリで笑ってしまいました。
今はまだ休職中で、最初の頃は認知行動療法から始まって、自分の歪んだところを矯正するような治療でしたが、最近はありのままに距離を置いて眺める、自分の考えや感情をただそのまま受け入れて手放す、マインドフルネスな方向の治療を継続しています。
現場に戻って復職を勝ち取るまでまだまだ時間がかかりますが、できることだけを少しずつやっていこうと思っています。
このブログが続いていることが嬉しかったです。

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