昔から同じような夢をよく見ます。服がなくて裸になってしまう夢(下半身丸出し多め)、自分だけができない夢(何ができないのかは不明)、床が抜けて下層に落ちていく夢。私は、焦りながらも平気なふりをして、どうにか隠れようとします。けど、結局どうにもならない。かなり正直な夢ですよね。私の心をまんま表しているようです。
でも、最近はそれらを一歩引いて見られるようになってきたかもなぁと思います。分析というほどではないけど、かなり冷静に受け止められるようになったといいますか。
その土台を作ってくれたのは、物語です。希死念慮や抑うつをごまかすために観ていた映画も、話の構造を理解する訓練になりました。
物語の登場人物は、迷ったり焦ったり怖がったりします。うまくいかないときもあります。でも彼らのことを「弱くてダメ」とは思わない。むしろ心を寄せたくなる。葛藤して、耐えて、諦めて、捨鉢になっている姿も、時に、「人間のクズ」と呼ばれるような行動でさえ愛おしく感じることもある。
こんなふうに、さまざまなストーリーを自分の感覚と重ねて眺められるのは、現実よりも安全な距離をとって観察できるから。
というようなことを、前回の映画の感想を書きながら思ったのでした。ついでに他の投稿(映画カテゴリ)も見返してみたら、自分はまさにそういう映画を求めているのだなぁとよくわかりました。
物語は、答えを教えてくれるわけではありません。むしろ、問いが増えてしまうことも多い。けれど、自分の苦しさや欠けている感覚が、どういうプロセスで生まれるのかを見せてくれます。世界や自分の心を理解するための翻訳機として、物語は味方になってくれます。特に、多数派の言葉が合わない場所にほっぽり出されたときには、どれほど心強い存在となることか。私自身、生き延びるために必要なものだったと痛感します。
先日観たドキュメンタリー映画『ぼくと魔法の言葉たち』でもそうでした。この映画でスポットが当たるのは、自閉スペクトラム症(自閉症)と向き合う青年オーウェン・サスキンド。彼は、ディズニー映画を通じて外の世界を理解し、コミュニケーションを学んでいきます。オーウェンにとって、ディズニー映画は、人生の指針であり拠り所でもある。「台本」という言葉が何度も登場したことも印象的でした。
オーウェンがディズニー映画のビデオを次々と棚に並べる姿を見たとき、何か静かに心が動くのを感じました。ぐっとくるというか、共感というか、羨ましいというか、目を細めたくなるような、光が差すのを感じたというか……なんだろうな、この気持ちは。とにかく、とても素敵だなぁと思ったし、「ああ、わかる、それだ!」と腹に落ちるものがあったんですよね。
そして、私も自分なりのバイブルを探し続けたいと思ったのでした。
登場人物の姿や言葉を借りながら、自分の感覚と向き合う。どうにもならない夜の夢や欠落感も、ただの恐怖ではなく、観察できる対象として受け止めながら。
要するに、何が言いたいかというと、「映画はいいぞ」ということです。
映画はいいぞ!
物語の力はすごいぞ!
