前回、「ゆるさ」に少し言及しました。「こういう人っていいな」と思う雰囲気についてです。
改めて読み返してみて、自分が考える「ゆるさ」って何だろう? と疑問に思いました。
「ゆるさ」はもともとネガティブな意味合いが強かったですよね。「締まりが無い」とか「だらんとしている」とか「緩慢」のような。「それはダメでしょ」という否定的な苦笑いが付随する印象もありました。
けれど、今の私は「ゆるさ」を肯定的に使うことが多くなっています。たとえば、ゆるキャラもそう。今でこそ愛される存在として定着していますが、当初は「ゆるい」という言葉に良い印象を持たない人も多かったようです。それゆえ、ゆるキャラの取材を断られてしまったと名付け親のみうらじゅんさんが語っていました。
「ゆるい」が肯定的な意味合いを持つのは、「きちんとしている=正しい」「完璧である=価値がある」という前提があってこそ成立するものなのかなと思います。「こうあるべき」という社会の要請に対するささやかな反抗というか、そこまで強いものではなくても、バランスを取ろうとして見出されたもの。息苦しさを和らげるための緩和。それが「ゆるさ」なのかなと。
前回書いた病院の先生たちを思い出しながら考えてみます。内面的な「ゆるさ」についてです。
このとき私が想定した「ゆるさ」は、単なるルーズさではありませんでした。私が安心感を覚えたのは、冷静ながらも柔らかな余裕をもって接してくれる先生たちの姿勢です。
威圧感がなく、緊張を強いられない空気。話しやすく、自然体でいられる雰囲気。
そうした場は、先生の構えない姿勢により作られます。
穏やかで、柔軟で、どこか飄々としている。でも、ちゃんと芯がある。そんな人に出会ったとき、私は「このゆるさ、いいな」と思います。それは、私の理想と重なっているということなのでしょう。
「ゆるさ」を感じるのは、自分の中に「こうあるべき」という基準があるから。たとえば「医師とは大体こういうもの」というイメージ。それは過去の経験から形成されたものかもしれないし、社会からの刷り込みかもしれない。中には、自分を守るために作り上げた防衛的なイメージも少なからずありそうです。
そうした理想像や緊張感があるからこそ、「ゆるさ」は際立ち、意味を持ちます。
私が考える「ゆるさ」とは。
余裕、ゆとり、あそび、バッファ、余白、隙間 etc.
さまざまな言葉で言い換えられそうです。
いずれも、緊張しがちで、カチコチ頭の私に必要なこと。
完璧じゃないほうが呼吸しやすい。
息苦しくなったら、思い出したい事柄です。