前回、名付けの有用性について書いてから、頭の中でずっとスピッツの「名前をつけてやる」が流れています。今回はその余韻の中で、ぼんやりと考えたことを書いてみます。
ごまかしきれない自分の気持ち、傷つかないようにと抑圧していた感情や衝動。そうしたものに名前をつける。それは承認ってことですよね。受容、受け入れるということでもある。
「名前をつけてやる」はスピッツの初期の楽曲です。それもあってか、若さゆえの衝動を感じます。自分の内でふくらんでいく何かにのみ込まれないよう抗い、主導権はこちらにあると主張する位置を取ってみる。でも、実際の自分はどこか滑稽で情けない。ああ、なんだか切ないな。
10代20代の頃の、手に余るような情動たち。とても尊いものに思えます。最近若い人を見るたびに「ああ若さ~生命力~」と思うのですが、これって自分が10代20代の頃にあまり好ましく思っていなかった大人たちの言葉。「人をうらやむより、今の自分を楽しめばいいのに」と思っていたのです。そう、今もそのとおりだと思うから、出力を我慢するところはあるんですけど、でもやっぱり思っちゃう。「ああ若さ!まぶしい!」。素直な気持ちなんだなー、今ならわかる。わかるぞ! ああ尊い。
名前をつけるには、それに値する強さや明確さが必要であるように思えます。「名前をつけてやる」を聞いていてまさにそう感じるのです。
でも、反対に、名付けることで対象が形になることもあるんですよね。たとえば、「無」や「ゼロ」という言葉。ないものに名前をつけることはできないかと思いきや、名付けられることで存在している。
名もなきものに名前を与えることは、「無」の中から何かを見つける行為なのかもしれません。
翻って、私自身の感情はどうか。今の自分は、自分の深層にある感情がよくわからない。無に近いような気もするし、何がくすぶっているような気もする。これに名前をつけるとしたら何? そう、それこそが「名前をつけてやる」を聴きながら浮かんだ疑問。
そう、何かがくすぶっているのではないかと予想はするのです。煙さえよく見えないけれど、何かしらはあるはず。水をかけさえしなければ、いつか煙が上がるかもしれない。そのうち小さな炎も立つかもしれない。メラメラ炎が立たなくても、燻製を作ることはできるわけだし。そう考えたら、むしろ、くすぶりすごいじゃんという話です。
じゃあ、この特定不能な何かは「くすぶり」という名前でいいんじゃないですかと今書こうとしたのですが、「くすぶり」ともなんか違うんだよなー、んーーー。でもまあそういう違和感があるとわかるだけでもけっこうすごいことです。それは存在を感知できてるってことだから。「しっくりこないな」と思うこと自体が、存在の証明?
名前がつけられないのは、存在していないのではなく、これから現れてくるものを静かに見守っている状態。そう考えると、「名前をつけてやる」未満の今も、そんなに悪くないものなのかもしれません。
今は「猫ちぐら」ぐらいの温度感で。いや、むしろ「美しい鰭」がぴったりかもしれない。うむ、ぴったりすぎるほどぴったりかもしれないあの雰囲気。ぴったりになりたい。ああ、スピッツのすばらしさ、草野マサムネの凄さよ。
「むき出しのでっぱり」はない代わりに、今後は老成を、円熟を、味わい楽しんでいけますよと思えば、穏やかな心持ちになれそうです。