扇風機が壊れたので、新しい扇風機を買いました。
新しい扇風機にはリモコンがついていました。今どきの扇風機には当たり前のようについているのですね、知らなかった~。
長らく使っていた古い扇風機にはリモコンがついていませんでした。だからこれまでの習慣のまま、リモコンを使わず操作していました。
あるときふと思い立ち、試しにリモコンを使ってみて驚きました。
なんて便利なんだ!
手を伸ばしたり動いたりしなくても扇風機がつく。当たり前のことですが、妙に感動してしまいました。遠隔操作、すごい。
それ以来、すっかりリモコンに頼るようになりました。ちょっと手を伸ばす動作をショートカットするだけなのに、こんなに楽になるなんて。リモコンで「ピッ」と操作するたび「ああ便利だなぁ~」と言っています。
でも同時に思うのですよね、この便利さの代わりに、体を動かす機会が失われているよなぁ~と。扇風機のスイッチを押すために立ち上がること、手を伸ばすこと、運動量としては微々たるものです。でも、それが習慣になることには若干の不安を覚えます。
この感覚は、扇風機に限った話ではありません。家電全般、それからAIのような技術もそう。人間の労力を減らしてくれます。便利になることで時間や体力を他のことに回せる。それはいいこと。特に、身体が不自由な人・痛みを抱えている人の負担を軽減できる。これはかなり有用。便利さは、やさしさにつながる。素晴らしい。
なのですが、自分自身の生活を振り返ると、扇風機をピッとつけられるようになったことで、何かプラスになったのか。他の何かに労力を注げるようになったのかと問えば、答えは「NO」。ただ、だらける時間が増えただけのような気がします。だって動かないんだもの。
となると、扇風機のスイッチを入れるアクションはやはり必要なのではないか。扇風機のスイッチを押すという小さな動きが、実は日常のリズムを作っていたのでは?
そんなことはないか。だって、スイッチを押すのが面倒なときは「ああ暑いなぁ」と言いながらダラけていただけだし。はは、動かないのは同じじゃん。
ああ、わからない。
私にはもう何もわからない。
便利になることがいいことなのかどうなのか、人間がどう在ることがいいことなのか。
何もわからないよ……
などと言いながら今日もリモコンのスイッチを押すのです。
「ピッ」